橋本左内の弟
一昨日には、橋本左内も医学の道に進んでいればあんなことにはならなかった、と書いたが、昨夜読んだ「胡蝶の夢」(四)の中ほどで、そんなこんなの思いがさらに複雑なことになってきた。
佐内には弟がいて、その橋本綱常は福井藩が長崎医学伝習所に留学させていたのである。
佐内は安政6年(1859)に斬死されていて、ポンペが長崎の医学伝習所で初めて解剖実習をした年だ。
佐内は家を継ぐべく緒方洪庵の塾へ行きながら、医の道を離れたため、弟の綱常が家を継いだ。
文久2年(1862)、松本良順が幕命で長崎から江戸に戻った時に一緒に江戸に戻り、その医学所で起居した伝習生23名のうちに、この橋本綱常もいた。
この同じ年、津和野藩の藩医、池田多仲は幕府医師に登用されている。
・ 橋本綱常は明治5年には松本良順の推薦でドイツ留学する。
・明治18年には軍医総監(中将)、陸軍省医務局長と、トップにまで登りつめている。
・この同じ役職に後年、森鴎外が登った。
・初代の陸軍軍医総監には明治6年に松本良順が就いた。
・池田多仲の養子の池田謙斎は、東京帝国大学医学部の初代綜理である。
あ〜あ、入り乱れて(それでいながら狭い世界の出来事に過ぎず)、ため息というか、つまり、ブッとんだ感想にたどり着けば、
江戸時代の各藩にいた藩医という職業を複雑な思いであれこれ想像したくなる。
どうしても文久2年が心ざわめくことになる
もう一つついでに、明治政府というのは、あれはもうある意味「生き残り」のえらく自意識の複雑怪奇な、またある意味「青年喪失した」人の集まりでできていた、と言うことはできないか。
森鴎外の遺言
「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」
この言葉には、存外そんな意味合いもあったと感じてもいいのではなかろうか。
それにしても津和野藩の藩医は。。。
他藩の藩医にも、それぞれの文久2年があったと思った方がいい。