「殯宮」
〜人麻呂の時代を考へてみれば、はたして御用詩人としての道を歩く外に、彼は全力的・全身的な表現の場を獲得することができたであらうか。言ひかへれば、御用詩人となる以外に、詩人であることが可能であつたかどうかといふことになる。茂吉のやうに、「御用詩人であつたにもかかわらず」ではなく、むしろ「御用詩人であつたがゆゑに」彼は眞の詩人となることができ、日本の詩の發生の場に立ち會ふことができたと言ふべきなのだ。〜
長歌の完成を、人麻呂の挽歌で見ようとする。
そうして巻一の雑歌に入っていても、
持統天皇の吉野行幸、近江荒都歌や、軽皇子の阿騎野遊猟の長歌・反歌・短歌は、挽歌と言ってもよいことを、山本健吉は執拗に解き明かそう?語ろう?としている。
〜文武四年(700)以降火葬制度の普及によつて、天皇・諸皇子等の殯宮行事が廢れるとともに、長歌の生命は終つたのだ。長歌は人麻呂に始まつて、人麻呂に終つたと言つてもよかつたのである。〜
長歌の完成、それゆえに長歌が持つ主題の二重奏への自覚によって、人麻呂における詩の自覚を、「言はば、抒情詩を生み落とそうといふ陣痛のさま」のように見せてくれる、と山本健吉は言う。
私は唸るばかりの心地である。
人麻呂は、いよいよ憧憬として遠くの彼方に退いていくのだね。
梅原猛の著作名である「水底の歌」という言葉は、
人麻呂の刑死を意味するということはさておいて、
遠のいていく柿本人麻呂を表現しているといってもいいと、今、私は思っているよ。
魂魄の遊離を鎮める
で、唐突ではあるが、高村薫さんの「土の記」の舞台である奈良県宇陀の半坂の地名が、山本健吉のこの本に出てきて、私はまたまた唸ってしまった。
「土の記」を取り出してぱらぱらとめくっただけで、こんな文章に行き当たる。
〜漆河原の死者たちはみな、参り墓の夫婦石が建てられるまでの数年、こうして卒塔婆の下でぽつ然と空を仰ぎ続けることになる。〜
下巻の帯にはこんなふうにも書いてある。
大宇陀の山は
今日も神武が詠い、
祖霊が集い、
獣や鳥や地虫たちが
声高く啼きあう。
「土の記」の前の出版は「空海」だったはずで、高村薫さんは歴史を遡って、「万葉集」の挽歌を丁寧に読み解かれたのかもしれない。
軽皇子の阿騎野への道行は、人麻呂が長歌で詠った魂鎮であり、この行程をたどる道筋を述べる段で、山本健吉は「〜行詰まった泊瀬をさらに越へて、宇陀地方に出るわけでである。半阪を越えれば、さらに完全な異境である。」と書いている。
ぼとぼと、ばたばた、ぼとぼと、ばたばた。
男の頭の中で響き合う雨音が、「土の記」をずっと流れている。
老いを迎えた男の頭は、
まだら模様のように、現実なのか幻想なのか、物思いを行きつ戻りつする。
生きた証を、微かに鎮めようとして、雨音が頭の中で響き合うのだ。
この本は、鎮魂の書といってもいいのかなあ〜
と、まあ、柿本人麻呂が、山本健吉が、梅原猛が、高村薫が、「水底の歌」という語で、
私には強引に(笑)繋がっちゃという次第で。。。
ほんと、支離滅裂な一人思いをしている私だから、ちゃんと他の人麻呂関係の本も読まなくっちゃあね。