断捨離という言葉を使わない?
リスナーから届くメールは50代、60代、70代というのが多い。
お布団の中で本を読むという行為が、60を超えるとしんどくなって、ラジオをお休みまでのお友達にするという人が多いのが分かる。
現に私も、読みかけの本があっても、深夜便を聴いたり、聞き逃しの「朗読の時間」で済ますことが多くなったかもしれない。
弁解すれば、あの「舞踏会へ向かう三人の農夫」(上下)で、夜の読書タイムに異変が起きた。
「パワーズはたったひとりで、そして彼にしかできないやり方で、文学と、そして世界と戦った」と、帯には解説からの抜粋がある。
この「彼にしかできないできないやり方」というのに、ただでさえカタカナの名前が羅列し、なおかつ、ドイツ系、オランダ系、ベルギー系、アメリカ移民、これらの人物が、時代を前後しながら、はたまたアメリカ、ヨーロッパと舞台が前後する、ついていくには相当の体力勝負の作品だ。
その上、随所に延々と続く、なんだか哲学的なリチャード・パワーズの思考が、散らばっているとしか言いようのない形で、現れる。
まず、この思考についていく能力が私にはない。
よしんば理解できるまで、丁寧に読み込んでいくしかないけれど、体力がない。
もしかしたら、この本は「全体として受け取る」というのでいいのかもしれない。
作者が意図しているのも、その「全体」なのかもしれない。
しかし、高村薫さんの「新リア王」みたいに、非常に苦痛であっても読み通すことができるのは、高村さんの感性と情緒と文体が、確かに伝わってくるからだ。
その世界に浸かる本読みの醍醐味が、確かにある。
一方で、翻訳ものには、感性、情緒、文体、それを超えるもの、つまり、物語性が圧倒的でなければ、私には、違った意味の苦痛の本読みになる。
ガルシア=マルケス、ウンベルト・エーコも私はいくつか読んだけれども、その物語性は圧倒的だった。さらに、全体を色濃く支配する情緒、これが、物語の中へぐいぐいと引き込んでいく。
もしかしたら、パワーズの「舞踏会へ向かう三人の農夫」の物語性や情緒は、非常に現代的過ぎて、もう時代に追いつかなくなった私には無理な読書だった、と言ったほうがいいのだろうか。
もちろん、学生の頃にはドストエフスキーもカフカもヘッセもその他諸々、随分読み通したけれど、いわゆる本読みの基本を身につけたわけで、一方、その翻訳の文体は日本的なるものだったから、読めたのだろうか?
話を戻すと、弁解といったが、いやいややはり本読みは楽しいもので、パワーズの残りを最後まで読み通したら、次なる本を見つけよう。
こんなことを朝目覚めてお布団の中で考えたのには、訳がある。
あとあとを困らせないために、「本を断捨離する」と思っていたが、断捨離ではなく、
チョイスすべきだと、ふっと、そういう風に考えた。
老後の自分の手元に置きたい本をチョイスしていく、これでやる。
さすれば、ことはもっと簡単になる。
本のみならず、すべてを、つまり洋服とか食器とか、身辺においておきたいものをチョイスする、これを基本でやっていこう。