bull87’s blog

田舎の暮らし〜こんなふうです〜老後をお考えの方、参考に〜Iターンを選択肢に入れてる方、参考に〜なるンかなあ・・・

本をチョイスする 2

モノというもの

リチャード・パワーズの「舞踏会へ向かう三人の農夫」の中で、

  「彼女は、思い出の品の値打ちというのは

   ーというか値打ちというのは一般的にーそれについて人が何か意味の

   あることを言える力を超えたところにあるのだと説いた。」

と書いていた。ミセス・シュレックの部屋についてのことである。

 

例えば、居間のガラス戸の書棚の隅に置いてある焼き物のマジシャン。

黒のハットを被って、手のひらにカードを載せている。

これは、お兄ちゃんが小学校6年生の時に工作で作った。

階段の途中に壁掛けしてある、茶と黒の寄木細工の小さな額縁は、中学生の時の美術の作品。

額の中も木工作品で、マンボウと水の泡が薄板で貼り付けしてある。

 

マジシャンの横には、Y子が小学2年生頃に紙粘土で作って色つけしたワンちゃん。

シッポが折れてしまっているけれど、これはうちにいたブルちゃんのはず。

まだ目も開かない捨て犬だったブルちゃんを、Y子は小さなカゴに入れていつも抱いていた。どこへ行くにもこのカゴを離さなかった。

 

だから、「意味のあることを言える力を超えたところにある」品を、

引っ越すからといって、ガラクタを処分しろと言われても、私はきっと持っていく。

 

ふと用があって入った部屋に、そういうものがなかったとしたら、

そこは部屋としての何か、私にとっての場所と言えるだろうか?

 

モノとしての本

そういう意味で、本というものは、もちろん読むためのものではあるが、

「何か意味のあることを言える力を超えたところにある」モノでもあるという気がしている。

キンドル?っていうの、あれを持ってもいいのかなあと考えたりもした。

もしかしたら持つかもしれないけれど、

やはり、今、私が持っている本はチョイスして、身の回りに置いておきたいと思う。

 

この前は山田風太郎の「人間臨終図巻」はチョイスすると言った。

司馬遼太郎の「街道をゆく」もチョイスする。

どういうわけか付箋の貼り放題になってしまっている。

司馬遼太郎の文体が好きです。

だからう〜んと唸った文章のところなんぞにも、多分、付箋しているはずだ。

それと、知識として必ずアレ、なんだっけ、って気になって引っ張り出すこともあるから、ガンガン付箋してある。

 

行く筈のない愛蘭土紀行にも付箋がしてある。

台湾紀行なんか、付箋だらけです。

従って、私の老後の部屋の棚のどこかには、きっとこれらを積んでおくことは間違いない!

 

高村薫さん、須賀敦子さん、

古典、例えば芭蕉の俳句とか、蕪村とか、万葉集とか、新古今集とか・・・

 

ストップです。

さっき救急車が走って、パトカーが走って、そのあと、ヘリコプターが舞っていると思ったら、向かいの小山のグランドに救急ヘリが降りた。

この近所で何かありましたから、ブログなんか呑気に書いてる場合じゃないかも・・・