モノというもの
リチャード・パワーズの「舞踏会へ向かう三人の農夫」の中で、
「彼女は、思い出の品の値打ちというのは
ーというか値打ちというのは一般的にーそれについて人が何か意味の
あることを言える力を超えたところにあるのだと説いた。」
と書いていた。ミセス・シュレックの部屋についてのことである。
例えば、居間のガラス戸の書棚の隅に置いてある焼き物のマジシャン。
黒のハットを被って、手のひらにカードを載せている。
これは、お兄ちゃんが小学校6年生の時に工作で作った。
階段の途中に壁掛けしてある、茶と黒の寄木細工の小さな額縁は、中学生の時の美術の作品。
額の中も木工作品で、マンボウと水の泡が薄板で貼り付けしてある。
マジシャンの横には、Y子が小学2年生頃に紙粘土で作って色つけしたワンちゃん。
シッポが折れてしまっているけれど、これはうちにいたブルちゃんのはず。
まだ目も開かない捨て犬だったブルちゃんを、Y子は小さなカゴに入れていつも抱いていた。どこへ行くにもこのカゴを離さなかった。
だから、「意味のあることを言える力を超えたところにある」品を、
引っ越すからといって、ガラクタを処分しろと言われても、私はきっと持っていく。
ふと用があって入った部屋に、そういうものがなかったとしたら、
そこは部屋としての何か、私にとっての場所と言えるだろうか?
モノとしての本
そういう意味で、本というものは、もちろん読むためのものではあるが、
「何か意味のあることを言える力を超えたところにある」モノでもあるという気がしている。
キンドル?っていうの、あれを持ってもいいのかなあと考えたりもした。
もしかしたら持つかもしれないけれど、
やはり、今、私が持っている本はチョイスして、身の回りに置いておきたいと思う。
この前は山田風太郎の「人間臨終図巻」はチョイスすると言った。
どういうわけか付箋の貼り放題になってしまっている。
司馬遼太郎の文体が好きです。
だからう〜んと唸った文章のところなんぞにも、多分、付箋しているはずだ。
それと、知識として必ずアレ、なんだっけ、って気になって引っ張り出すこともあるから、ガンガン付箋してある。
行く筈のない愛蘭土紀行にも付箋がしてある。
台湾紀行なんか、付箋だらけです。
従って、私の老後の部屋の棚のどこかには、きっとこれらを積んでおくことは間違いない!
古典、例えば芭蕉の俳句とか、蕪村とか、万葉集とか、新古今集とか・・・
ストップです。
さっき救急車が走って、パトカーが走って、そのあと、ヘリコプターが舞っていると思ったら、向かいの小山のグランドに救急ヘリが降りた。
この近所で何かありましたから、ブログなんか呑気に書いてる場合じゃないかも・・・