宮沢賢治は作られたのか?
う〜ん、スッキリはしていない。
結論から言えば、とても丁寧に宮沢賢治の育った家庭については書かれていた。
どちらかと言えば、父の丁寧な?熱愛が、宮沢賢治という人を作った?という部分はあるにしても、やはり、宮沢賢治の世界は、それだけでできたものではないという、もっと知りたい欲求感が増した読書ではあった。
父母の愛情豊かに育まれ、よき兄弟姉妹とともに成長した幸せは、やはり豊かな心の芯を育てるのだろう。
この父の愛情は、子を育てる不安や悩みや怖れや喜びや、それをそのまま子と真正面に向き合った愛情であったようだ。
子の賢治はまた、過剰で正直な父の愛を真正面から素直に受け止めて成長した。
今の読後感はこのようである。
辻潤が賢治を絶賛した!
一つ意外な発見をした(私が知らなかっただけのことなのだろうが)。
賢治が最初に自費出版した「春と修羅」という詩集は、これはほとんど売れなかったらしいが、辻潤が絶賛したという。
大正13年といえば、辻潤が大杉栄に伊藤野枝を奪われて、一層のダダイストの本領を発揮していた頃で、彼はその後、宮沢賢治を忘れてしまっていたに違いない?
賢治の死後1年で、にわかに発見されて全集が出るのだけれど、この頃には辻潤は斎藤茂吉の青山病院に入院させられるほど錯乱状態もあったというから、おそらく、賢治の童話を読むような状態ではなかったのかもしれない。
よしんば賢治の童話は辻潤から遠いところにあったのかもしれない。
以上、辻潤と宮沢賢治の時系列を確かめるべく、昨夜私は例の山田風太郎の「人間臨終図巻」を取り出したわけで、山田風太郎は、宮沢賢治についても、辻潤についても、その臨終の記述は淡々と、それでいて恣意的だった。
辻潤の死亡診断を餓死としている。
宮沢賢治は肺結核の闘病の末、亡くなるが、山田風太郎の記述はこうである。
「〜死後遺稿として発見された。彼自身は自分の詩や童話の独自性や芸術性を固く 信じていたといわれるが、これはどんな三流詩人も同様に確信しているに違いないから、特筆するには当たるまい。この年二月には、小林多喜二が虐殺されている。」
恣意的と私が言うのは、山田風太郎流の突き放すような書き方のこと。
辻潤をどう思っていたか、宮沢賢治の童話をどう思っていたかなどは、書かれない。
でも、ちょっと、宮沢賢治の項の最後部分は冷たくない?
これだから、山田風太郎はやめられない・・・・