「しびれる短歌」2
実は昨日、「しびれる短歌」を半分しか読んでいなくて感想を書いてしまった。
昨夜も読んだけれど、基本的に感想は変わらなかった。
「社会のあり方表現として短歌を味わうということはできない」と書いたけれど、じゃあ、「新古今和歌集」〜どんだけ、昔ですかあ〜は、あれはおそらく社会のあり方を表現していたと言えるのかもしれない。
学者でもない私が、たくさんの定型詩を味わってもいないくせに、このようなことを言うのはおこがましいかぎりではある。あるが、横に置いておいて、勝手に考える。
昨夜も延々と続く現代短歌のあれこれを聞きながら(読みながら)、ああ、そうだ、「新古今和歌集」の歌が次々と詠まれた頃も、苦々しく思われていたのかもしれないなあ、という思いを持った。
私は、摂政太政大臣藤原良経の幾首歌に惹かれた。
とはいっても勉強家ではなかったから、新古今の中の良経の歌が好きだったという程度である。
万葉集の中で大伴家持の歌が好きだったように、このことは、「万葉集の中の大伴家持」「新古今の中の藤原良経」という意味だろうか。
全体の中で放つその個の何か、家持と良経が放つその個の何かが、要は私のお気に入りだったということだ。
万葉集がどれだけの世界を展開していても、新古今がどれだけの世界を見せたとしても、その中にたった一個の個として存在し、その存在感を歌にして見せた!
ウ〜ン、これは、家持という男と、良経という男への一種の恋みたいなものかな?
時代が移れば、恋する男の像も変わる。
現代短歌の中の男性歌人は、誰かどこかの女の子?に恋される存在であるのかもしれないのだ。彼の放つ一個の個としての存在が、どこかの誰かを惹きつける。
また、男は男で、どこかの誰かに嫉妬し、自分の個を研ぎ澄ます。
「しびれる短歌」はそういうことを思わせてくれたのですよ。。。