又平に逢ふや御室の花ざかり 蕪村
「うた日記」で知ったこの俳句をとても好きになって以来、
気になることができてしまった。
中七句に「や」の切れ字が入って、こういうのを「句割れ」と言うのだそうだ。
しかし私の「気になること」というのは、切れ字の本来の役目を果たしていない「や」ではないのかということである。
(学校で習ったことなんて、本当のことは全部教えてくれないのだ〜当たり前〜)
例えば、
降る雪や明治は遠くなりにけり・・・(あまりにも陳腐なのを思い出して)
この初句切れする「や」、うん、これが切れ字のお手本だ。(学校ではこう習う。)
つまり、蕪村の句、
「又平に逢うや」で意味的に切れるから、「逢ふ」は上句の「又平」に付く語であるから、中七の句割れということになる。
けれども、「逢ふ」は「御室」の語と切れてはいなくて、非常に密接に繋がる語になってはいないか、私はこういうことが気がかりになっているのだ。
つまり、この「や」は、「逢うや御室の」と繋げたい、リズムの「や」と感じてしまうのだ。
芭蕉にも中七で句割れの句があるのかとパラパラと探してみた。
(わざと句割れ部分で切った)
風流の初や おくの田植うた
畑打(うつ)音や あらしのさくら麻
人も見ぬ春や 鏡のうらの梅
ほととぎす啼くや 五尺の菖草・・・(有名なヤツ)
これらを「逢うや御室の」のように句割れしたところをくっつけて、中七だけで読んでみる。
「初めやおくの」
「音やあらしの」
「春や鏡の」
「啼くや五尺の」
こうなるが、これらには、
「逢うや御室の」
が作り出すリズム、語感の心地よさ、情景の広がり、それらを感じさせない。
中七句が、確かに句割れしている。
蕪村のこの「や」はいわゆる切れ字とは違う働きを句に作り出している、こう、私には思えるのだ。
まあ、この言いたいことが、人には伝わらなくてもいいや、私がこだわっているだけだし・・・
またいつか、もうちょっと理論的に説明できるようにしよう。
ちゃんと説明できるはずだということを、私、なんとなく感じているから・・・
で、そんなこんなで、ゆうべ、ご飯を食べながらプレパトを見ていたら、
なっちゃんが添削した句
待ち合わせる友よ京都の春ショール
これなんだけれど、「友や京都の」にしたほうがいいんじゃないかと、思ってしまったのだ。
「〜や〜」が頭の隅でリフレインしているみたいなこの状況、こういうの、解決したいものです・・・
おっと、台所に立たなくちゃ!