bull87’s blog

田舎の暮らし〜こんなふうです〜老後をお考えの方、参考に〜Iターンを選択肢に入れてる方、参考に〜なるンかなあ・・・

逢ふや御室の〜(1)

又平に逢ふや御室の花ざかり  蕪村

 「うた日記」で知ったこの俳句をとても好きになって以来、

気になることができてしまった。

 

中七句に「や」の切れ字が入って、こういうのを「句割れ」と言うのだそうだ。

しかし私の「気になること」というのは、切れ字の本来の役目を果たしていない「や」ではないのかということである。

  (学校で習ったことなんて、本当のことは全部教えてくれないのだ〜当たり前〜)

 

例えば、

  降る雪や明治は遠くなりにけり・・・(あまりにも陳腐なのを思い出して)

この初句切れする「や」、うん、これが切れ字のお手本だ。(学校ではこう習う。)

つまり、蕪村の句、

「又平に逢うや」で意味的に切れるから、「逢ふ」は上句の「又平」に付く語であるから、中七の句割れということになる。

 

けれども、「逢ふ」は「御室」の語と切れてはいなくて、非常に密接に繋がる語になってはいないか、私はこういうことが気がかりになっているのだ。

つまり、この「や」は、「逢うや御室の」と繋げたい、リズムの「や」と感じてしまうのだ。

 

芭蕉にも中七で句割れの句があるのかとパラパラと探してみた。

  (わざと句割れ部分で切った)

  風流の初や おくの田植うた

  畑打(うつ)音や あらしのさくら麻

  人も見ぬ春や 鏡のうらの梅

  ほととぎす啼くや 五尺の菖草・・・(有名なヤツ)

 

これらを「逢うや御室の」のように句割れしたところをくっつけて、中七だけで読んでみる。

「初めやおくの」

「音やあらしの」

「春や鏡の」

「啼くや五尺の」

 

こうなるが、これらには、

「逢うや御室の」

が作り出すリズム、語感の心地よさ、情景の広がり、それらを感じさせない。

中七句が、確かに句割れしている。

 

蕪村のこの「や」はいわゆる切れ字とは違う働きを句に作り出している、こう、私には思えるのだ。

 

まあ、この言いたいことが、人には伝わらなくてもいいや、私がこだわっているだけだし・・・

またいつか、もうちょっと理論的に説明できるようにしよう。

ちゃんと説明できるはずだということを、私、なんとなく感じているから・・・

 

で、そんなこんなで、ゆうべ、ご飯を食べながらプレパトを見ていたら、

なっちゃんが添削した句

  待ち合わせる友よ京都の春ショール

これなんだけれど、「友や京都の」にしたほうがいいんじゃないかと、思ってしまったのだ。

 

「〜や〜」が頭の隅でリフレインしているみたいなこの状況、こういうの、解決したいものです・・・

 

おっと、台所に立たなくちゃ!