世事とは俗事、反対語はなに?
昨夜、「うたは世事を超えるのです」と書いたが、その後読んでいた宮城谷昌光さんの「楽毅」に、この「世事」という言葉が出ていて、「せいじ」とルビが振ってあった。
「せじ」と打って「世事」と変換したし、私はずっと「せじ」と読んできた。
今調べたら「せじ」もあるが、「せいじ」と読むほうがもしかしたら正当派?。
で、この世事に関わることで、昨日の民生委員の会合で災害時の避難の話になった。
梅雨時ではあるし、天候不安が増している昨今、要支援者の避難の際の手助けは各地区の民生委員さんの悩みの種ではある。
T氏が住む山の集落は、ずっと昔は大変大きな集落で、共助の仕組みが機能していたようだが、現在は4世帯、T氏のみが頼りの高齢世帯のみになっている。
「どのタイミングで避難するの?」
「僕の判断です。
大雨警報が出された段階で、天気図をみて、ちょっとずれたら来るなと思ったら、早めに避難してもらうんです。
一度、判断がつかなかった時があって、役場から避難してくださいって連絡をもらってから皆さんを迎えに行って避難したんだけれど、違う道を使ったら、確実に土砂崩れにあってたなと思ったことがあったのよ。
あれ以来、早めに自分で判断して避難所に連れて行くんです。」
話を聞いていたS女史、「何を持って避難したらいいのかなあ」
T氏、「うちのおばちゃんたち、避難慣れしてるから、迎えに行くとすぐ車に乗ってくれますよ。
避難訓練とか、あれは、何の役にも立たない。
一度実際に警報が出た時に避難所に避難してみたら、分かりますよ。
まあ、避難慣れ、これが一番確かです」と、自信満々に答えた。
「避難慣れ」かあ・・・確かに・・・
T氏は早めに避難してもらった方が「僕としては楽」だと言った。
多分、そのT氏に頼りきっている高齢世帯も「楽だ」。
人って、誰かに判断を委ねてしまえば、楽なんだろうな。
宗教には、そんな面もあるのじゃないだろうか・・・
まあ宗教は置いておいて、選択とか判断とか、体力勝負みたいなものだから、「隠居する」という昔の行為は理にかなっていたのだ。
世代同居でなくなった現代は、理にかなっていないわけですよ。
無理を通せば、角が立つ、どころの話ではなく、理にかなわないことは破綻が待っている気がしないでもない。実際、その破綻は目に見えてきている。
それとも新しい、理にかなった社会というか人の生き方を、次の世代は創造してくれるのだろうか、期待したいの一言に尽きる。