我に返って・・・
つまり、日常の瑣末な野暮用というものは、これで終わりとなるようなものは何もないということで、ときどきふっと我に返る小さな時間に、隙間風が吹くような心許なさに呆然とする。
と、こう書いてみても、隙間風を表現するものは何もないわけで、日常の瑣末な事柄の中に幸不幸を読み解いていくしかないのが、普通の暮らしなのだ。
というわけで、今朝の集団登校の顛末・・・
歩き始めて間もなく、小1男子、鼻血が!!!
かわいそうに、ポタポタとこぼれてくる鼻血を、誰もテッシュを持たないときている。
一体、お母ちゃん達は何をしとるんじゃ!!!
そういう私も油断があった。
ハンカチもテッシュもポケットに持たずに歩いてしまっていた。。。
50メートル先にTちゃんが待っている。
彼女なら必ずテッシュを持っているはずだから、呼びに行かせた。
案の定、弟のHくんもテッシュを取り出して、2人で甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。靴にこぼれた鼻血まで拭いてくれるHくんだった。
さて止まらない鼻血の小1男子を歩かせる訳にもいかず、ちょうどスクールバスが見えて、乗せてもらった。
で、ここで終わりとはいかなかった。
Hくんが
「せっかくお父さんからもらった新しいテッシュがなくなってしまった」の一点張り!
ずっと言い続けて、上でカアカアと鳴くカラスにまで、悪態をつく始末。
おお、君にはそういうところがあったのだね。
でもって、帰り道で車が横付けになったと思ったら、Sさんが
「枝豆、今採らないと大豆になるから、家の前におろしといていい?」
大量の!!!枝付き豆が届いたわけです。
ありがたいことこの上なしではあるが、ああ、この処理で午前中が・・・
とまあ、かくして瑣末な日常が、しかも切れ切れの、何の脈絡も、意味のつながりもない雑多が、繰り返されていくというわけだ。
こらえきれずに、「犬を愛した男」から、抜き書きして、この耐え難さの落とし前をつける。
「〜しかも、その10年のうちに、ペレストロイカの希望が生まれて消え、チャウシェスクのような人物の素顔が暴かれてグラスノスチと同じような驚愕を人々に引き起こし、経済政策が変更された中国では、マルクス主義的純血の名のもとに実行された文化大革命が実は恐怖の集団殺人でしかなかったことが明らかになった。まさに歴史的断絶の時代であり、国際政治の均衡が崩れたばかりか、地図の色も哲学上の真実も変わり、もちろん人間も変わった。改善の期待が盛り上がった後、偉大なる夢が実は最初から死の病にかかっていたばかりか、その名のもとにカンボジアのポル・ポトのような大量虐殺まで行こなわれていたことが明らかになり、一気に落胆が広がる。我々はその真っ只中にあった。不滅と思われていたものがついに崩れ落ち、誰も信じなかった嘘がおぞましい真実の深みを隠す氷山の一角であったことが発覚するにつれて〜」
歴史は繰り返される。人間のなす技には進歩はないのだ。
希望は「日常の瑣末な幸不幸の中にしかない」のだろうか?
この膨大な物語を私は読み続けているわけです。
(図書館のお姉さんが延長okしてくれた)
この物語の「非日常」、実は人が織りなす瑣末な日常の積み重ねが歴史を「非日常」に変えてしまう、この事実の圧倒的な真実から目をそらすことができない。
従って、瑣末な日常の細部を読み飛ばしていくことはできないわけで・・・延々読み続けている・・・
彼はまた書いている。
「〜いかにして歴史の決定が窓から人生に入り込んで内側から食い尽くしていくものか〜」