三十一音の世界を幸福と感ず
毎日読んでいかないと、ゆっくり味わうということができないから、今朝は一番にミルクコーヒーを飲みながら、「うた日記」を開きました。
小池光氏の歌が続いています。
ひっそりと生馬のような夕闇がゐたりポストのうしろ覗けば 『日々の思い出』
人ひとりの刹那の心象風景が、歌詠みにあらぬ凡人にも沁み込んできます。
恒温動物には共通の情緒回路があるとしか思えません。
歌詠みは、その見えぬ回路を言葉に変える、魔術師のように、実は「死ぬ思いで」。
「小池光のユーモア」について「うた日記」は考察(この言葉も適切ではない)しておられますが、そのユーモアは単純明快なものもあれば、具象的であればあるほど読み手を様々な場所に引っ張り込みますね。。。
人心のかぎりをつくし福沢を夏目にかへるプロセスが競馬 『時のめぐりに』
「ポスト」や「プロセス」のカタカナの使い方に意図があるようですか?
ちなみに、逆に!夏目を福沢に変えるのが競馬の本道ですよね・・・
遊びをせんとや生まれけむ〜 戯れせんとや生まれけむ〜
こんなうろ覚えの今様、口をついて出てくるのが、男が競馬をしている時の感想です。
なまぐさくなるべくしてなりてむすめ二人をりをり火のごとく父を避く 『草の庭』
ひらがなで書いたのは、父の娘への「愛」の表出を、戸惑いを持って非常に慎み深く、或いは確信的に詠ったのだと、私は感じました。
娘は私にもおりますが、「なまぐさくなるべくしてなりて」という思いを感じた経験はないようです。これは同性である母親ゆえかもしれません。
ちなみに我が姪ですが、中学生から高校生にかけてだったと思いますが、
「半径1メートル以内に近づくな」と、父にきつくお達ししたそうです。
そのくせ、アッシーの使い放題、父親はホイホイ喜んで、お仕えしていましたそうで。