「かあさんのせなか」(朝日新聞 3/8)
養老孟司さんのお話だった。
「僕は寂しかったのか、よく病気になっていました。すると、別の医者を呼ぶんです。自分の子は重く見るか軽く見るかどっちかになっちゃうから、と。」
お母さんは医師で小児科医院を切り盛りされていた方だったそうだ。
ちょうど昨日はテレビで美容師さんのママが、学校休校で子どもを美容室に連れてきてお仕事されているお話が映されていた。
オーナー室が子どもの居場所になって、社長さんは隅っこのデスク一つが居場所になってしまったけれど、「これからは子どもを連れて来てもいい事にしようかと思ってます」とのことだった。
怪我の功名というのはちょっと不謹慎かな?
この大ごとで、社会のあちこちで、子どもたちの今までは見なかった姿が報道されるようになっている。
ママのお仕事場をドアの隙間からそっと覗いてみる。
「もうお昼ご飯の時間なのに、ママはまだご飯は食べられないな」
「お仕事場ではお行儀よくしなくちゃ」
「お客さんと話している時のママは、おうちのママと全然違うママだ」
子どもが一生懸命に親のことを考える
そういうとても大切なことが子どもたちから奪われてしまっていることに気づかされる。
大好きなお母さんのあれこれを想像して、我慢したり、わがままを言ったりできる兼ね合いは、子どもは自分で推し量って見つける。
子どもが本来持っている力が、発揮される場面が多くなってきているのではないだろうか。
養老さんのお母さんは「お前には心はかけたけれど、手はかけなかった」と言われたそうだ。
親の側からも、子どもの側からも、この言葉は確かに名言だ。
「手をかける」ご時世、お稽古事や塾通い、ありとあらゆる学習教材やお仕着せの遊び事が溢れ、親も子も、実はどちらもアップアップしている・・・溺れそうだよ〜〜〜って・・・
そうして「心をかけない」後ろめたさに追い詰めれれているように見えるのだな、昭和世代には。
だからこのところの大ごとで、親も子もその後ろめたさからきっと解放されているに違いない。お互いが「心をかけなければならない」状態に追い込まれてしまったのだからね。
あちこちで、道端に春の小さな花が咲くように、親と子のいい話が生まれるのを夢みます。