bull87’s blog

田舎の暮らし〜こんなふうです〜老後をお考えの方、参考に〜Iターンを選択肢に入れてる方、参考に〜なるンかなあ・・・

初めに、海、ありき

はっきり言って私はバカなので、今から書こうとしていることは少々難しい・・・けれども今日はおとなしくpcに向かっている方が良さそうなのであえて挑戦するが、メチャクチャでも仕方ない・・・(今日は天皇賞です😁 さっき「今日は御告げいらない?」って聞いたら、一言、「いりません」とのことです。)

 

「海を渡った古墳時代の倭(わ)人たち その2」

NHKカルチャーラジオ歴史再発見は、10月からは「朝鮮半島から見た『古墳時代』」で、国立歴史民俗博物館准教授の高田貫太先生のお話を聞かせてもらえる(そもそも朝鮮半島南部に倭系古墳があったということ自体、私には歴史再発見なのであった😰)

私は聴き逃し放送で後から聴いていて、昨夜4回目を聴いた。

これを聴く前に、数ページ残っていた司馬遼太郎の「オホーツク街道」も読んだから、この放送と本読みは、私的にはうまく連動している?(意味、わからん)

 

先生は最後の方で、こんなふうにまとめのお話をされた。

     お話を上手にまとめられないし、誤りもあると思うがご容赦を)

倭系古墳からは甲冑も出土しているが、同時に百済中央からの冠も出土していることを考えれば、葬られた彼、彼女らが、倭王権、九州北部の意向のままに動いていたというより、朝鮮半島の側からも活動していたと考えられる。

半島の海岸部や諸島の古墳に葬られた人を、現地の人なのか、倭の人なのかという視点からのみ見ていくと、境界を行き来した倭人の活動を、特定の社会から一面的に把握してしまう危険性がある。

                

 で、この放送を聴き始めた時に地図帳を開いたが、当たり前の話だけれど、この東アジアって、海の側から見たら、みんな周辺の島や陸地なだけで、島や陸地の側から見て「ここは○○国です」っていうのは逆に!おかしな話なんだよ!っていうことが分かる。

つまり、うんと昔はお互いうまくやっていたみたいなんですよね。

 

オホーツク海

      f:id:bull87:20201013102803j:plain これ、ワイド版。前にも言ったが、残念。

司馬遼太郎さん(さん付けはいささか・・・でもなんと呼べばいいのか)は「オホーツク街道」で、最後にこう書いておられます。

 

「北海道の考古学者は、みないきいきしていますね」

 と、知床峠の休息所で野村崇氏にいうと、温顔がほころんだ。

「それに、学閥のあらそいがありませんしね」

 と、私は言いかさねた。私は昭和二十三年から五カ年、京都大学を中心とした考古学的活動をみて、ときに病的なほどの閉鎖性を感じたりした。

 そういう暗い印象が、北海道にきて、まったく晴れやかなものになった。

「いい旅でした」

 と、あらためて野村崇氏に感謝した。

 オホーツク人の正体につき、私の想像力では手に負えなかった。が、そのことに後悔していない。

 そんなことよりも、私どもの血の中に、微量ながらも、北海の海獣狩人の血がまじっていることを知っただけで、豊かな思いを持った。

 

当たり前をまた言えば、サハリンも北海道も、間宮海峡も、宗谷海峡も、礼文島も、アムール川の流れる大陸も、オホーツク海の周辺の!どこか!に過ぎない。

つまり、海の真ん中に浮かんだ小舟に乗っているつもりで、周りを見たら、どうなるか・・・

 

 

竹島とか、尖閣諸島とか、北方4島とか・・・

なんかみんなでうまく一緒にやっていけないものなんすかね。

そういうわけにはいかないか、縄文、弥生、古墳時代ぐらいまでか、世界は小さかったんだ。舟で行き来できる海が世界の中心だったんだ・・・