「私は、日本は昭和四十年代のころが一番『良き時代』ではなかったかと考えている。」
山田風太郎は言う。
まあすぐさま「あてずっぽう」などという言葉を持ちだしているから、なんとなくそんな気分になることもある、という程度くらいにはぐらかしている。
白絣を着た国語の先生が、夏の日差しを浴びながら窓に寄りかかって、こんなふうに言う。
「二年生にねえ、一人、川端狂いがいましてねえ〜」
定期テストの前に、数学の先生が授業が終わって、問題集を持ってこいと私を手招きする。
いくつかの問題に印をつけて
「この中から3問出すから、誰かにノートを見せてもらってやっておけ」
膝の上に本を広げて読みふけっている私を、先生はいつも見逃していた。
三島由紀夫の市ヶ谷のことは、秋晴れの美しい日であった。
学校を怠けてお昼前に帰った私に、珍しく玄関まで出てきた母が
「○○子、三島由紀夫が・・・」と、告げた。
屋根に干された布団に寝転がって、私は泣いた。
人間って、悲しい、というか、一人ぽっちで遠くに行ってしまうんだ、って、そんなことを初めて思った。
今考えたら、人は死を憧憬することがあるという、怖さだったのかもしれない。
大人は本当に一生懸命働いていた。
その分、子どもたちが何を考え、何をしているか、ほおっていたみたいだ。
けれども要所要所では必ず意思の疎通を図ってきたし、子どもたちの変わりようは、ちゃんと見ていた。
私は本当に自由だったと思う。
そうしてそんなふうにさせてくれた親、特に父親の眼差しを、
山田風太郎の言葉を聞いて、今懐かしく思い出すのだ。
この間の映画「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」を見たら、あのころ、どんなふうに子ども達が自由に生きていたかがよくわかる。
昭和四十年代は、子どもたちにとっても「良き時代」だった。
「兆候」と「徴候」
調べて納得しました。今日のいいことにしておきます。
国語力アップ.Comで丁寧に教えてもらえます。便利なことになっている。
だのに、昭和40年代のほうが、本当に良かったの?って聞かれても、ねえ・・・