関寛斎は何処へやら
T氏が
「ダメダメ、当分関寛斎は出てこないから」
と言ったが、確かにその通りで、いつの間にやら関寛斎をさておいて、私はあらぬ方へ行ってしまっている。
司馬遼太郎の「胡蝶の夢」(三)あたりから、これはもう年表を作って頭の中を整理しなければ落ち着かないことになった。
う〜ん、西周に林洞海の6男が養子に入って西家を継いだ・・・
う〜ん、森鴎外の父親は松本良順の門下生になっている・・・
のちに森鴎外がドイツ留学した時に、引退していたポンペから「林研海に似ている、用心しなされ」と言われたとか、言われなかったとか・・・これは女性問題の方で・・・
林研海は林洞海の子で、松本良順からは姉の子、甥にあたる・・・
う〜ん、森鴎外の妻登志子は林洞海の孫にあたるではないか・・・
この表はまだ途中だし、明らかに完全ではないし、あくまでも私の覚書であるゆえ、モザイク
文久2年が目眩く
ポンペのオランダ帰国、幕命によるオランダ留学生の派遣、海軍伝習生7名(士分)、医学伝習生2名(松本良順の人選、林研海と伊東玄白)、法学、経済学等の伝習で2名(西周、津田真道)、この年が文久2年で、生麦事件の年だ。
ちなみにポンペ、西周、津田真道は共に文政12年の生まれ、翌年の文政13年に関寛斎、吉田松陰が生まれている。
「胡蝶の夢」の物語はどこかへ行ったかのようで、司馬遼太郎をこんな風に読んだのは初めてだろう。
それでもって結果的に NHKの大河ドラマ「晴天を衝け」を見る羽目になった。
つまり松本良順が、京都でひどいことになっていた一橋慶喜を診療しているわけで、ここのところを確かめないわけにはいかないだろう(慶喜にアヘンを処方したとあるが)。
はたまた、オランダ留学からの帰国後に西周は目付に就任し、慶喜の側近になっているから、これもドラマで確かめないわけにはいかないだろう。
で、昨夜、
しかし彼は文久2年を待たずにいなくなった。
医学を捨てずに長崎に行っていたら、あんなことにはならなかったはずだ。
緒方洪庵は適塾から伝習生を長崎に送っているから、文久2年になればオランダ留学組になっていたかもしれないのに。。。
その上、松平春嶽の福井藩からは他藩を圧倒する人数の学生を長崎に送っているのに。。。
文久2年に春嶽が幕政参与になるのに、どうして文久2年に橋本左内はいなかったのか。。。
やはりこの辺りは整理しなければいられないはずで、家系図を作った人はたくさんおいでになりました。
その一つ、拝借です🙏なさい
ありがたいことです。