「ぼとぼと、ばたばた、ぼとぼと、ばたばた、雨滴が杉の斜面にへ落ちる。杉の下の自生の茶の木へ、この漆河原の集落へ、棚田へ、畑へ落ちる。半坂や馬取柿や、近隣の集落へ続く草むした峠道や林道へ落ちる。わずかばかりの家々の屋根瓦へ落ち、枕に載せているこの頭の上へ落ち、頭蓋骨に当たって跳ね返り、一部は骨を透過する。昨日一日考えたことやあれこれの記憶が濡れそぼってふやけ、かたちがなくなる。」
昨夜は上巻を読んだ。
どうしてまた二度目の「土の記」に手を伸ばしたか?
つまり、私は上に書いた文章の、あの世界にもう一度手を伸ばした、そういうことだと思う。
上巻の帯には
「大地に雨が躍り、光が滴る」とある。
下巻の帯は
「生の沸点、老いの絶対零度」とある。
いくらなんでも「老いの絶対零度」とは・・・どういう意味だ?
私にはわかりませんね。
まあ、編集者にもいろいろ都合があるだろうから、このことについてはスルーする。
上巻の後半からは、何がしかの変化も起きて、物語らしき何かもあって、先を急ぐように読むようになることは、なる。
結局けれどもだね、やはり、この「土の記」は、薄皮を剥がすように、人の生の虚無が、あちこちに立ち現れたり、ぼやけたり、それこそ、「ぼとぼと、ばたばた、ぼとぼと、ばたばた、」と、頭の奥で耳鳴りのように人に囁きかけるのだ。
それを「老いの絶対零度」と表すのだろうか?
いや、高村薫さんは、「老い」がその薄皮を剥がしていくというふうに書いてはいないのだと、私は思う。
「老い」を使っただけだ、と、私は思う。
薄皮を剥がすには、ちょうど「老い」が、都合が良かっただけだ。
なんだか今日は一日、この雨続きの湿気の中で、
私も、耳鳴りの先の、しーんと静まった世界に、片足突っ込んだみたいに過ごしそうな気がしてきて、
おやおや、それはいけません、
今日は夕方、夫の競馬時間が終わったら、下の町に買い出しに行って、焼肉を食べにいく!!!