bull87’s blog

田舎の暮らし〜こんなふうです〜老後をお考えの方、参考に〜Iターンを選択肢に入れてる方、参考に〜なるンかなあ・・・

どうしてまた高村薫さんの「土の記」に手を伸ばしたのか?

「ぼとぼと、ばたばた、ぼとぼと、ばたばた、雨滴が杉の斜面にへ落ちる。杉の下の自生の茶の木へ、この漆河原の集落へ、棚田へ、畑へ落ちる。半坂や馬取柿や、近隣の集落へ続く草むした峠道や林道へ落ちる。わずかばかりの家々の屋根瓦へ落ち、枕に載せているこの頭の上へ落ち、頭蓋骨に当たって跳ね返り、一部は骨を透過する。昨日一日考えたことやあれこれの記憶が濡れそぼってふやけ、かたちがなくなる。」

 

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昨夜は上巻を読んだ。

どうしてまた二度目の「土の記」に手を伸ばしたか?

つまり、私は上に書いた文章の、あの世界にもう一度手を伸ばした、そういうことだと思う。

 

上巻の帯には

「大地に雨が躍り、光が滴る」とある。

下巻の帯は

「生の沸点、老いの絶対零度」とある。

 

いくらなんでも「老いの絶対零度」とは・・・どういう意味だ?

私にはわかりませんね。

 

まあ、編集者にもいろいろ都合があるだろうから、このことについてはスルーする。

 

上巻の後半からは、何がしかの変化も起きて、物語らしき何かもあって、先を急ぐように読むようになることは、なる。

 

結局けれどもだね、やはり、この「土の記」は、薄皮を剥がすように、人の生の虚無が、あちこちに立ち現れたり、ぼやけたり、それこそ、「ぼとぼと、ばたばた、ぼとぼと、ばたばた、」と、頭の奥で耳鳴りのように人に囁きかけるのだ。

 

それを「老いの絶対零度」と表すのだろうか?

いや、高村薫さんは、「老い」がその薄皮を剥がしていくというふうに書いてはいないのだと、私は思う。

「老い」を使っただけだ、と、私は思う。

薄皮を剥がすには、ちょうど「老い」が、都合が良かっただけだ。

 

なんだか今日は一日、この雨続きの湿気の中で、

私も、耳鳴りの先の、しーんと静まった世界に、片足突っ込んだみたいに過ごしそうな気がしてきて、

おやおや、それはいけません、

今日は夕方、夫の競馬時間が終わったら、下の町に買い出しに行って、焼肉を食べにいく!!!