bull87’s blog

田舎の暮らし〜こんなふうです〜老後をお考えの方、参考に〜Iターンを選択肢に入れてる方、参考に〜なるンかなあ・・・

水底の歌

梅原猛さんの熱量が半端ない

梅原猛著作集全20巻(集英社)は1981年?から順次発行されて、11巻「水底の歌」はその第4回配本で、1982年1月15日に発行されている。

この著作集は発行されるたびに、当時の私は買い求めたはずだが、すぐに読むことはしないでいた、と、思う(なんか、仕事と子育てで・・・)。

後になって「水底の歌」を読んだのがいつだったか、とんと記憶にないから、今、やっとこさ本気を出して読み始めたということになる。

      

       お恥ずかしい・・・帯を無くして
梅原猛の書き様?に圧倒される、というか、まずは斎藤茂吉への怒涛のような批判(こう言ったら叱られる・・・)に、いやいやなんとも、遅々としてページが進まない。

  読書は寝る前の時間帯だけの、今の日々なので(言い訳です)

読み飛ばしてもいいのかもしれないが、一言も聞き逃したくない(読み落としたくない)心理が働いているから、諦めて、ここはじっくりいくしかないかなあ〜というのが今の心境だ。

 

で、今の段階で気になっていることを書いておく。

 

茂吉が鴨山を望んだ「湯抱温泉」のこと

私の記憶では「ゆがかい」と石見の人たちは言っていた(ゆがかえ、と言う人もいるにはいた)。

検索したら、やはり「湯抱温泉(ゆがかいおんせん)」とホームページにある。

 

茂吉も人麻呂の歌の「石川の貝」を「石川の峡」と採る方に向いていたが、「貝」と「峡」については、昔むかしから結構なポイントなんだろうに、「湯抱」を「ゆがかい」と呼ぶことについては、茂吉も梅原猛も、なんら触れていない(今まで読んだところまでの話)。

 

二人とも石見に実地調査しているわけだから、地元の人に案内されて「ゆがかい」と言われたはずで、気に留めなかったか、聞き逃したか、土地の人の「なまり」のようにしか思わなかったか、

あるいはどこかで触れているのかもしれないのだが、気になってしょうがない。

 

「湯の峡」、と感じてよい地

私が石見地方にいた頃、夫と三瓶山に登った帰りに、この温泉で汗を流したことがあった。

あまりに黄色いお湯なので、髪の毛を洗うのはためらわれた。

 

また、住んでいた中国山地の中の村の、我が家の隣のおばあちゃんは、

「秋の農作業が終わったら、湯抱(ゆがかい)に湯治に行かせてもらったもんだ」と話してくれた。

お米を持って自炊しながら、10日か半月か、逗留したそうだ。

 

この村は浜田市から中国山地に入った村だから、昔は乗合バスで浜田市へ下りて、山陰本線江津市まで行き、そこで江の川沿いを走る三江線(現在は廃線)に乗り換え、江の川に沿って1時間半くらい?、粕淵駅で降りる。

さて、そこからはどういう交通手段でで「湯抱温泉」まで行ったのだろうか。

乗合バスがあったのだろうか。

朝早くに出て、暗くなる頃に着くような所へ、求めて湯治に行くのだから、古くから湯治場として石見では名のあった所なのだろう。

 

江の川三江線が走るようになるまでは、川が運輸の機能をしていたと聞く。

日本海に流れ込む江津の港から、中国山地の山間を遡り、広島県の三次の地とを結ぶ、運輸の本流が江の川だった。

湯抱温泉に行くには粕淵の地から入るに違いないが(石見銀山からの経路もある)、粕淵は、江の川の運輸ではきっと重要ポイントだったはずだ。

今では昔の賑やかな名残はない町になっているが、山陰から江の川を遡って中国山地を越え、山陽へ出ようとする旅人にとっては、粕淵からその先へ行った湯抱温泉で一夜を過ごすことは、想像できる。

 

で、うんと古く遡って、古代山陰道が機能し始めるのは奈良朝期以降のようだから、よしんば人麻呂が石見国府から藤原都を行き来したとして、江の川沿いから中国山地の山間、ないしは尾根を越えて、安芸方面か備後方面へ出る、そうして瀬戸内海の海の行路をとると想像しても、さほど違和感はないように私には思われる。

 

江の川沿いの「渡」の地、その裏を山越えして「矢上」の地

梅原猛が言うように、

柿本人麻呂万葉集の「石見国に在りて死に臨みし時、自ら傷みて作れる歌」以下五首をきちんと信じるなら、人麻呂の「妻に別れて上り来る時」の長歌も、きちんと信じてみてもいいのではないかと・・・私は思うのだ。