bull87’s blog

田舎の暮らし〜こんなふうです〜老後をお考えの方、参考に〜Iターンを選択肢に入れてる方、参考に〜なるンかなあ・・・

緊張をはらむ

イニシェリン島の精霊

司馬遼太郎の『街道をゆく』の「愛蘭土紀行」、これは2巻になっているが、それを思い出した。

映画の撮影はゴールウェイに向かって「ワニのように口を開けた」湾に浮かぶアラン諸島の一番西側のイニシュモア島で行われたという。

   

 

   

 otocotoから写真をいただきました。ごめんなさい。パンプを買いそびれたもので・・・

司馬遼太郎はダブリンからゴールウェイへ行き、アラン島へ渡るのだが、そのゴールウェイが

この映画の主人公の妹が「本土へ行く」と言った街なんだろうか。

いや、島にはアイルランド内戦の銃音がかすかに届くのだから、やはり架空の島で、妹が言う「本土」の街も架空の街なんだろう。


何故に司馬遼太郎を思い出したかと言えば、アラン島の石垣の印象が強かったからだと思う。

 

要するに、風が運んできたホコリを一週間に何日かは降る雨がそれを湿らせて飛ばないようにし、あとは苔か草かが生えて、薄皮まんじゅうの皮のように表面をかためているだけなのである  (司馬遼太郎「愛蘭土紀行Ⅱ」)

 

人も食べるものに困るほど痩せた土しかないのに、映画では家畜に草を食べたいだけ食べさせている。

草葺の家の中では薪を燃やして暖をとっているのだが、あの薪を燃やすほどの樹木がこの島にあるのだろうか。

ね、映画の感想としては、非常に変な話だ。

 

この映画は4人の主だった人物に、「アイルランド」を昇華させて見せた映画だったんだろうか、と言うより他ない、そんな感じだ。

監督の物語の作り方、切り取られた映像、この中に、アイルランドの歴史も文化も、アイリッシュも、「この島が生みつづけた文学」(司馬の言葉)も、凝縮されて昇華されていると感じてもいいのではなかろうか。

 

司馬遼太郎とこの旅を共にした須田画伯について司馬遼太郎は書く。

「この会が終わりましたら、ワッチは礼文島ないしは”アラン島”にもどります。」

”アラン島”(礼文島でもいいが)というのは地名ではなくてもはや須田さんの哲学用語なっているのである。

 

ずっと緊張感をはらんだ映画だった。

「退屈な人生」と言わせて、「退屈」がはらむ狂気とか幻視、これが哲学。。。

 

映画は2月3日に札幌の母を見舞った日に観た。

すぐに感想が書けなくて、おまけに「街道をゆく」まで引っ張り出すものだから、日が経った。

そうして司馬遼太郎をめくっていると、「街道をゆく」は、また読みたくなってくるのだね。