先週18日で45回目を終わった。
4、5回前から大伴家持を中心に据えて、お話が進んでいる。
1年間のお話が終わりに近づいている。
柿本人麻呂に始まって、大伴家持で終わると、私の中の万葉集は勝手にそうなっている。
では、家持にとっての人麻呂はどうであったのか、そういうお話をこの講義の中からは今までのところでは!聞くことができないでいる。
家持が「自分は柿本人麻呂(直接にこの名をあげてはいない)から直接に教えを受けたのではなく、その足元にも及ばぬが・・・」というようなことを、ほんの数語で書いていると、どなたかの本で読んだ記憶がある。
どこに家持のその言葉が書いてあったのか、ああ、あちこちめくって探し当てるなんてことは、私は放棄する(諦める)。
鉄野昌宏先生の講義はあと4、5回はあるはずで、その中でお話があるかもしれないから心待ちにしよう。
で、家持に話が進んでから、私は山本健吉の「大伴家持」(筑摩書房 日本詩人選 5 昭和46年発行)を引っ張り出して読み始めた。
随分昔の本ですねえ〜古本屋には並んでいるのでは?
幼年から少年時代へと、家持の初めの頃の素直で初々しい歌の様から解き始めて、次第に家持独自の詩の表現へと進んでいく。
家持が13、4歳の頃
我が屋外(やど)に蒔きし瞿麦(なでしこ)いつしかも
花に咲きなむ擬(なぞ)へつつ見む 巻8・1448
家持が多く歌ったナデシコの花の初見
(「瞿麦」の「瞿」の字、漢字検定1級の字ですね笑 音読み「ク」 どうしてこの字なのかは私は怠けて勉強していない)
「鬱悒」を「無為の倦怠」と山本健吉は言う
家持が17歳の頃
雨隠(ごも)り情(こころ)鬱悒み(いぶせみ)出で見れば
春日の山は色付きにけり 巻8・1568
「いぶせし」とは、ものの不分明で晴れぬさまだが、その点では「おぼほし」に似ていて、どちらも「鬱」の字を当てている〜
〜人麻呂時代には「おぼほし」がよく使われたが、家持時代になると、もっと心理的に微妙なニュアンスを欲して、気分の形容としては、「いぶせし」が好んで使われるようになった。
人麻呂が「鬱悒」を使ったのは、「讃岐の狭岑島に死人を見て作る歌」の長歌で、「鬱悒久」(おぼほしく)とある。
家持が生まれたのは、養老2年(718)か4年(720)、
和銅元年(708)に「柿本佐留卒す」(佐留は梅原猛が人麻呂ではないかとした)ということになっているので、30年かそこらの時を過ぎて、人麻呂と家持の「歌の言葉」の用い方は進化?しているのだ。
人麻呂に始まった「詩」
というか、その30年の時は、一気に家持へと飛んだのではなく、例えば大伴旅人や山上憶良が筑紫時代に挑んだ表記改革の試みや、新たな詩への発見を、少年時代の家持が間近に肌で感じて成長したからに他ならない。
ただその間に、家持が旅人や憶良から人麻呂の何にも聞かずに歌を作り始めたのだろうか。
旅人や憶良らにとって、柿本人麻呂の話題はタブー?だったのではないか。
家持は人麻呂の歌については何も語らずに、万葉集に人麻呂の歌を配したことできちんと人麻呂を語ったのではないだろうか。
やはりどのように思ってみても、万葉集の柿本人麻呂は大きな謎を持っている。
(ちなみに、今週末の藤井聡太竜王と羽生善治九段の王将戦第5局は島根県大田市の三瓶山近くの「さんべ荘」で行われる。このホテルを横に見て通り過ぎた先の湯抱温泉近くに、斎藤茂吉が人麻呂終焉の地と定めた鴨山があるのだね。)