大伴家持の憂鬱
持統10年(696)太政大臣高市皇子死去、柿本人麻呂の長歌の中で最も長い「高市皇子挽歌」、この後官僚の大異動、藤原不比等(38歳)、持統朝の五大夫として政治の中枢に進出
で、ですね〜
文武元年(697)持統天皇の孫・軽皇子、文武天皇即位。不比等の娘宮子夫人となる
大宝元年(701)不比等正三位大納言。「大宝律令」制定。宮子首皇子(後の聖武天皇)出産
慶雲4年(707)不比等食封二千戸賜る。文武天皇崩御、文武の母・元正天皇即位
梅原猛「水底の歌」の巻末にある人麻呂周辺の年表。これ、眺めているだけで時間が過ぎる笑
・文武の皇太子時代の「安騎野に宿った時」の人麻呂の歌はあるが・・・
・700年頃から火葬が始まり、持統天皇も火葬、殯宮の制度がなくなって正式な挽歌も「万葉集」には見えなくなった?
養老2年(718)「養老律令」撰進、首皇太子(聖武)朝政。大伴家持生?
このページの上、「柿本佐留卒す」とあり、下の方、「大伴家持生る」とある
天平16年(744)家持、安積皇子挽歌としての長歌、これは私的な歌と見られる
で、ですね〜
不比等が全力を挙げて律令制度を作り上げていく過程で、柿本人麻呂は消された?というふうにしか、やっぱ、思えないんだよね〜
なおかつ、ですね〜
この間に大伴旅人や山上憶良などは官位をあげ、大伴家の家刀自を務め、家持の母がわり、歌の手解きまでした坂上郎女などにとっては、人麻呂の存在?たるや、つい、目と鼻の先に?あったはずなんだよね〜
家持をもしかしたら目にかけてくれた橘諸兄などは、もろに人麻呂の歌が多く歌われたその同じ時期に生きていたはずなんだよね。
百歩譲って笑人麻呂が下級官人だったとして、諸兄には歯牙にもかけられていなかったとしてもだね、
家持が万葉集に人麻呂の歌の数々を取り上げていくのを、諸兄は見ていたはずなんだよね。
どうして自分が知っている人麻呂を、家持に語って聞かせないことがあろうか。
貴公子 家持さん
あしひきの山さえ光り咲く花の
散り去(ぬ)る如き吾王(わごおほきみ)かも 巻3・477
釈迢空は、「譬喩に使った花の印象が、美しく心にはりついているのを感じる」(『日本古代抒情詩集』)と言っている。(山本健吉「大伴家持」)
この家持の歌、柿本人麻呂にはなかったものかもしれない・・・
これ、5、60年の間の話なんですよ。
文芸?というか、価値観というか、人の心模様というか、すっごい変容が起きていると言ってもいいのじゃないのでしょうかね。
大伴家持には古さと新しさとが二つながらにある、と山本健吉は言っている。
氏姓制度の価値観は家持の血の中に流れ、家持をかたち作っているに違いないのだが、もしかしたらその自覚ゆえに、どうしようもなく近代的な個の自覚が蠢き、顔を持ち上げ、家持をゆえなく「鬱結の緒(こころ)」(山本健吉の言葉)に引き摺り込んでゆく・・・
遠のいていく柿本人麻呂の「詩」
繰り返すが、不比等がなそうとした律令制度が、柿本人麻呂を消し去り、持統女帝を「せんすべなく」新しい価値に引き摺り込んで、そうしてあたかも必然であるかのように!天武の皇統は絶える・・・
ああ、柿本人麻呂をその「詩」とともに過去の遺物として消し去った何らかの事件はあったはずなんだよね、でっちあげだとしてもね。青年・家持にとっても、その怖れは案外身近なものだったんじゃないのか。
家持にとって「万葉集」を編むことは、自身の心をのぞきみる作業だった、当然「鬱結の緒」は、いや増していく・・・・