吉川弘文館 世界史年表・地図より
この地図はもちろん繁体字で記されているが、Googleマップでは簡体字表示なので、なかなかによろしくない・・・
「蒙が啓かれる」ということばを司馬さんは使うのだが、足元にも及ばないのは承知の上で敢えて言う。
「蒙が啓かれる」思いが、私は甚だしかった。
804年(延暦23年)7月、遣唐副使の第二船に乗って出発した。
遣唐大使が乗っていた第一船には無名の留学生空海が乗っていた。
空海の方の船はうんと南の福建省の福州付近に漂着し、最澄の乗る第二船だけが無事に目的の港・明州(寧波)に到着した。
他の第三船、第四船は行方不明になった。
最澄は天台宗の仏典の膨大な書写に6ヶ月間を費やして目的を果たしたのだろうが、
司馬さんが言うには、余計な付け足しがあった。
最澄が明州(寧波)で日本へ帰る船待ちの間、十日あまりを、越州(紹興)へ行ったことである。
そこで密教の教えを慌ただしく受け、帰国に際して持ち帰った。
以上、読者にとっておもしろくもないことどもを書きつらねたが、日本密教史にとって最澄の越州滞留というのはゆゆしき事件であったために、ことさらにふれた。
と、思った。
まことに最澄の生涯にとって、越州の十日(と思われる)は、かれの篤実な性格の軌跡を物語ると見るより、魔がさしたとするほうが、最澄へのいたわりであるかのように思える。
繰り返し、珍しいほどに女々しく、司馬さんは言うのだ。
最澄がこの後、空海に頭を下げて密教の教えを請うたことなど、それに付随したあれこれに後半生の十数年を取られたことなどを、司馬さんは非常に残念に思ったのだろうか。
「街道をゆく16」「叡山の諸道」
阿耨多羅 あのくたら
三藐三菩提の仏たち さんみやくさんぼじのほとけたち
我立杣に わがたつそまに
冥加あらせ給へ めかあらせたへ
「奈良をすて官寺での修学をやめ、ひとり叡山にのぼり、林間に草堂を結んで独居した」のは、最澄22歳、この時に詠んだ歌を、司馬さんは次のように表現している。
「冥加あらせ給へ」という句は、少年の心のような初々しさを感じさせる。
〜このみじかい言葉は山頂を一陣吹き去ってゆく真冬の西風のように清らかである。
この十七文字の歌ひとつに、「恋焦がれるような」想いを私でさえも感じた。
司馬遼太郎という人は、思うに、少年時代になかなかに鬱屈した閉ざされた心を持って長じた人だったのではないだろうか。
司馬さんの小説の人々は、司馬さんの憧れが肥大して、あんなにも魅力的な人々になり得たのだろうか。
「街道をゆく」でも、出会った人々への観察と敬意とを惜しみなく表現している。
ただし、おそらく司馬さんの気に入らない人や物事へは、亀がじっと半目を閉ざすように知らぬ顔をしていたに違いない。(すみません、私なりの今の感想で・・本当はもっと知りたい)