bull87’s blog

田舎の暮らし〜こんなふうです〜老後をお考えの方、参考に〜Iターンを選択肢に入れてる方、参考に〜なるンかなあ・・・

「水底の歌」 梅原猛

長い旅だった・・・(大袈裟かもね笑)

読み始めてから、1ヶ月以上かかった。

他の本も同時に読みながらだったけれど、大切に、大切に読んだつもりだ。

そうして、いい旅だった、と、この重量たっぷり(とにかく重いに尽きる)の本を閉じた。

 

解説で中西進先生も書いておられる。

『水底の歌』は簡単な読み物ではない。このメンドウな考証、人麻呂の生没がどうか、官位がどうかといった議論は、御用とお急ぎの方には手間ひまがかかる。しかし、同時に「『水底の歌』の面白さは推理小説を読むようだ」という感想をきかせてくれる人が多いところをみると、そのメンドウさが堪らない魅力でもあるらしい。いずれにせよ、この点が中心だということは動かない。しかし、このメンドウさは、どうも着物らしい。氏の裸は「つんつん」にある、と私は考えた。これは大きな驚きであり、喜びであった。氏の『古典の発見』は、うるおいのある書物だと思っている。非常に柔軟でみずみずしい。それに通うものの、発見であった。

 

ここの「つんつん」については、解説の初めに書かれている話だ。

そうか、梅原猛は、讃岐の狭岑島で死者に遭った時の柿本人麻呂の挽歌に、こういうイメージを抱いたんだなあ、そのイメージの確かさというか、真実というか、それを追い求めて「水底の歌」で、これでもか、これでもかと、問い続ける。その旅に、惹かれてしまうんだなあ〜

 

NHKラジオの「古典講読 万葉集

第29回は「巻十三 長歌の世界」と副題がある。

3240、3241番の長歌反歌(この短歌は、或書云で穂積朝臣老が佐渡に配流されるときに作った歌とある)、この二首について、鉄野昌弘先生は、有間皇子の歌と、柿本人麻呂長歌との関連をお話になった。

「巻一三にはこうした机上で作られた作品が多いように思われるのです。そしてそれらは宴の席で歌われたのではないでしょうか。」

人麻呂が配流されたのだとして、元正天皇のサロンで、皆の記憶に新しい流罪ないし刑死を被った人の歌を連想させる歌が詠まれるということが、本当にあったのだろうか。

 

中西進先生は書いておられる。

〜有間も大津も刑死者である。右の三首は、ともに臨刑詩であった。どうして人麻呂だけが例外でありえようか。〜

 

もちろん、梅原猛と「意見が一致していない」点についても中西先生は述べられる。

このことについては中西進先生の本を読んでみるつもりだ。

 

いずれにしても、「古典講読」では柿本人麻呂の名がたびたび出てくるのだから、鉄野先生は何かを伝えようとしておられるような、いやいや、もっと勉強してごらんなさい、と言っておられるのかもしれませんね〜

 

でもって、途中で読んでいた本「古代史の新展開」(吉村武彦著)には、こんなことも書いてあった。

  稲岡耕二さんが牽引してきた和歌の和文表記の研究が進んでいます。

稲岡さんが指摘されたことについて、このように書かれていた。

 藤原京址出土の木簡宣命に見る大書体表記は、人麻呂の技術的達成の応用に外ならない」

   

 

う〜ん、柿本人麻呂とはなんぞや。

まあ、これだけは私にも分かる。

言葉の豊穣さ、現代人が亡くしたものだね(もちろん私も)、ここに圧倒される。そこんところが人麻呂の醍醐味なんじゃないのか。。。

 

 

 

 

 

 

函館の冬支度

北海道の冬暮らしは、今のところ、楽しみかも・・・

11月に入ってからは、近くのガソスタからにぎやかな音がしています。

みなさん、タイヤ交換なんですね。

我が家はまだ交換してません。来週かな?

 

朝方の室内気温が20度くらいだと、とりあえずはFF暖房でやってます。

割合と寒くなくて、午後は室温22度以上になり、暖房なしでも過ごせています。

薪ストーブは、夕方からつけてます。

    

着火剤の袋。優れものです。6×3センチくらいですが、半分に折って使っても十分に焚きつけに着火します。

心が安らぐ時間

4時頃から始めても、熾火が安定するまでは1時間近くかかります。

この間、薪ストーブ初心者はつきっきりで、火の具合を眺めているのでありますが、

これが意外と心安らぐお時間なわけです。

何も考えませんね。

私の場合、たまにビール缶とナッツとか薪の上において、火を眺めてるわけです。

火力が安定するのは夕食時分かなあ〜

 

おいおい、夕食の準備は?といえば、ちょこちょこ下ごしらえに台所と行ったり来たりですが、夫との共同作業なので、適当にやってます。

 

で、夕食時分には24度を越えてくるから、はっきり言って、半袖Tシャツで過ごしてもいいくらいになります。素足で過ごしてます。

昨夜は25度を越えて「暑くない?」って感じでした。

 

問題は湿度です。

40%代になりますから、入浴後にお洗濯して室内干しをしています。

加湿器が多分必要になりますが、こうやってモノが増えてくるのは、心外であります・・・

 

まあ、外気温が2、3度、マイナスとかになれば、こういう呑気なことは言ってられないかもしれませんね。

そこらあたりが経験してみないと分からないです。

 

10月に入った頃、灯油配達の車が来ました。

1ヶ月に一度回って、外の灯油タンクに、勝手に満杯給油していくそうです。

この灯油、どれくらい使うのか、この冬を経験してみないとわかりませんね。

 

散歩が一番の気掛かりかも・・・

さて、厳寒になれば、家を二、三日とか1週間とか留守にする場合の、水落としとかも初めての経験になります。

問題は路面凍結の場合、散歩が心配なのです。

ウインターシューズは用意してますが、どうかなあ〜

夫が必要だってしつこく言ってた耳当て付き帽子は、私、買いました。

ちょっと可愛いので、楽しみです。

      

BEAMSオンラインで、私はこういうのはチャチャッと決めます。夫はまだあ〜たらこ〜たら悩んでます。

通りを歩く人は、もうしっかり厚手のダウンとか着ておられますが、そんなに寒いかなあ?って私は思っています。

寒さに対する構え?というか、なんか北海道生まれは遺伝子がそうなってるんじゃないかと思います。

 

 

高橋虫麻呂さん、大伴旅人さんと筑波山に登る?

NHKラジオ「古典講読 万葉集」27回  

(もうこの講読は30回くらいになっているはずだが、私は聴き逃しで聞いているから遅れている。この聴き逃しには期限があるから焦るってこのブログに書いたら、親切な方が「『らくらじ』で保存できるよ」と教えてくださった。よって、早速「らくらじ」で保存し始めたので、至って安心。おかげさまです。)

「富士山の歌と筑波山の歌(巻3・9)」という副題がついている。

この中で高橋虫麻呂筑波山長歌が、なんだか、いいなあと思ってしまった。

 

検税使大伴卿 筑波山に登る時の歌一首 と詞書にある。巻9 雑歌 (1753)

「筑波乃山乎 欲見(みまくほり) 君来座登(きみきませりと)熱尓(あつけくに)汗可伎奈気(あせかきなけ)」

「嘯鳴登」(うそぶき登り)「歓登」(うれしみと)「今日之楽者」(今日の楽しさは)

 

都から大伴卿がはるばる来られた。是非とも筑波山に登っていただきたいと、夏草を押し分け、木の根っこを掴みながら、ふうふう言って嶺上に辿り着いてみれば、今日は運よく晴れ渡って(「清照」)、国の絶景が隅々まで見渡せる。

嬉しくて、服の紐を解いて、家にいる様にくつろいで遊ぶことだ。

春に来るよりも、夏草が生い茂っているからこその、今日の楽しさは格別だ。

   鉄野昌弘先生の現代語訳のとおりではないのですみませんけれど、まあ端折ってこんな内容の歌。

 

この感覚、今とちっとも変わらないですよね。

遠来の客に一番のおもてなしを、と思う気持ちとか、汗をかいて、山の頂上で、ああ、気持ちがいい、とか、何よりこの地のいいところを友と共感できたこととか、そういう嬉しさが伝わってくる。

東国の国司に追いやられてても、そんなにくさらないでお仕事して、私生活も充実してたんだって思うよ。

 

鉄野昌弘先生は、この「検税使大伴卿」には諸説あるが、「大伴旅人ではないかと思う」とおっしゃっている。

そうですか、大伴旅人さん。。。

 

家刀自の働きで家は持つ?

で、ちょうど先日読んだ「奈良貴族の時代史 長屋王家木簡と北宮王家」(森 公章著)で、皇族・北宮王家との家産経営を比較するのに、旧豪族の大伴氏を例にあげられていた。

    

     p186にある大伴家の大まかな系図

①旅人死去後、まだ家持も出仕前で、一族に五位以上の有力官人を出していなかった頃のこと

②家持叔母の坂上郎女が大伴家の家刀自として家産管理でどんなふうに頑張っていたか。

坂上郎女は秋には田庄まで出向いて滞在し、収穫作業の指揮を行なっていた。

平城京にいた家持は田庄から送られてくる叔母の歌に応じていた(万葉集)。

 

そうかあ、昔の権勢は及ぶべくもない大伴家、それでもやはり大奥様が田んぼまで出向くっていうんだから、なかなかのもんだ。そうして歌まで家持の手解きができるんだからね。

不比等だって、橘三千代のお陰が、ものすごっく大きいらしいから、昔々はジェンダーフリーでみんなイキイキしてたみたいだなあ。

 

大伴旅人は亡くなる時には大納言までになっているから、家産の管理も大変だったのだろうが、嫡男として大伴家を継いだ家持の苦労は並大抵じゃあなかっただろうな。

大伴家持聖武天皇の代に越中守・従五位上を賜ってから以後、平城宮ないし政界のゴタゴタ続き?の中で、おそらく生きた心地のしない壮年時代を過ごしたに違いない。

あっちへ飛ばされ、こっちへ帰され、まあ最終的には正三位まで登っているのだが、これは皇統が天武から天智に戻ったことでのことだろうか???

 

それにつけても、この森公章先生の本は専門的なので、キツイっちゃキツイんでありますが、どこの荘園からどれだけ米が入ってくるとか、調庸の細かなことまで管理している貴族の家産経営には、びっくりだ。

 

柿本人麻呂が、この北宮王家の祖・高市皇子の挽歌を歌ったのだね。

一つの時代の終焉、新しい時代の始まりの中で、人麻呂はどこへ行ったのだろうか。

 

 

 

 

上質なサスペンスのよう・・・2

「〜万葉集巻1、巻2の終わりが、共に志貴皇子関連の歌で終わっていたのかもしれない〜」

NHKラジオ「古典購読」の「万葉集」25は「志貴皇子とその周辺」のお話で、鉄野昌弘先生はこう仰った。

 

う〜ん、やっぱり「万葉集」は上質なミステリだと、私はいたく胸がときめいたのだった。

 

つまり、天武天皇の直系皇統がいなくなって、ふってわいたように天智天皇の皇子の中でも最も皇位継承から遠かった志貴皇子の子、のちの光仁天皇へ、皇統が戻っていくのだったね。

光仁天皇の頃には大伴家持の処遇も回復されて、「万葉集」が完成した頃じゃないか?

 

巻1、巻2の巻末に志貴皇子関連の歌を置くというなら、すごく頷ける話だね。

 

柿本人麻呂はなぜ姿を見せないのか

持統朝の末から聖武天皇とそれ以後のゴタゴタ?というか、律令体制が形を整えるダイナミックな歴史の動き、その過程で藤原不比等の成したそれぞれ、そういうことを思うと、その非常に重い歴史の流れの中で、柿本人麻呂が突然姿を消して、人麻呂の一切が「水底」に沈んだのだとしても、不思議な話ではないと、私は思ってしまったのだね。

 

鉄野昌弘先生は「下級の官僚であった人麻呂」と言われたが、梅原猛の「水底の歌」を読めば読むほど、本当に人麻呂は下級の官僚であったと決めつけていいのか?そういう気持ちが大きくなる。

一方で、下級官僚であったとしても、それはもしかしたらどうでもいいことなのかもしれないし、人麻呂の官僚組織の中での地位とは別の、何か大きなミステリが潜んでいるんじゃないかと・・・

巻1、巻2の巻末が志貴皇子関連の歌で終わっていたというなら、巻2の巻末近くの、柿本人麻呂の歌、あるいはそれ関連の歌に、やはり、ある意図を思ってみてもいいのじゃないか。

 

分からんよ、人物相関が入り乱れて・・・

私は、函館中央図書館に行かざるをえなくなった。

私が持っている「日本史年表」(吉川弘文館)ではぜんぜ〜ん!間に合わなくなった。

   

 これは2020年発行、高校日本史では今もこれを使ってる?

そして「万葉集」の皇子たちの歌に現れる異母兄、異母妹の悲恋の歌、はたまた政争に敗れた皇子の歌・・・それやこれやで「人物相関図」が欲しくなったのだ。

 

で、一緒に借りてきた「奈良貴族の時代史 長屋王家木簡と北宮王家」(森 公章著・講談社選書メチエ 2009年刊)が、またまた非常に面白かった(まだ読み中)。

  

 長屋王家木簡、バンザイ!っていうくらい、すご〜く面白い

北宮というのは高市皇子の宮のことではないかと推測されているのだ。

高市皇子の子・長屋王の周辺には藤原不比等の影が濃い。

というより、不比等の妻で光明皇后の生母・県犬養宿禰三千代(橘三千代)、この女性が影の黒幕?みたいな存在だったらしい。

天武朝から後宮に出仕し、持統・文武・元明・元正・聖武と、歴代の天皇に仕えている、強者だね。

高市皇子の子・長屋王サロンの宴には、山上憶良も参加しているし、それならと、私は、人麻呂の影を探し求めている・・・

 

話が逸れていったけれど、「高市皇子挽歌」を詠んだのは柿本人麻呂だ。

山本健吉は、献呈挽歌の代表的作者が柿本人麻呂だと言い、

「明らかに殯宮のとき作った歌と明示してあるのは、日並皇子尊(167)・明日香皇(196)・高市皇子尊(199)の薨去に際しての三篇であり、左注に『河島皇子を越智野に葬る時』とある歌(194)もそれに準ずる作品である。」

と書いている。(「柿本人麻呂」)

いずれも、持統朝から文武朝の頃で、藤原不比等が力をつけ始めて、律令体制が整う前段階の、まあ、古いものと新しいものとのせめぎ合い? 風雲急を告げる? なんとなく、不穏な空気感?がみんなのお尻の下を覆っていた笑

そんな頃に、柿本人麻呂は、渾身の力を込めて、挽歌という長歌の完成形を見せたのだ。

終わっていくある時代の、最後の荘重華麗な輝きだったというのだろうか。

 

不比等にとっては柿本人麻呂は過去の遺物?いなくて宜しい?存在だった・・・

不比等は着々と、律令体制確立に邪魔な存在、過去の遺物を排除していったのではないか。

 

ところで、持統三年(698)に、志貴皇子を頭とした撰善言司(よごとつくりのつかさ)という役所が作られ、この役所に当時の知識人が集められて、

「一つの創造的な気運をかもしだしてゐたことを、想像してもいいだらう。」

「この役所がつくられた持統三年は、年次の明らかな人麻呂の歌が最初に見える年でもあった。折口博士は、こ撰善言司に人麻呂が属したいたのではないかと想像してゐる。」山本健吉柿本人麻呂

 

志貴皇子万葉集の歌には、ある個性が漂っている。それと、万葉集編纂に関わる、重要人物でもあるのだが・・・

大伴家持との関係というか、交流というか、ここらあたりは、また「古典講読」で鉄野昌弘先生からお話があるかもしれない。

 

あ〜あ、あれやこれや、私の頭は、支離滅裂・・・

 

 

 

雪虫、見たかも・・・

今夜あたりは薪ストーブの出番・・・

函館の秋は、もっと庭の片付けが早いんだろうと想像していたけれど、意外に夏の残りの花が頑張ってくれている。

 

メランポジウムはさすがに片付けたが、ブルーサルビアがこんなに長くしっかり咲いているとは!

金蓮花は夏の西日がきつかったらしく、鉢植えが残念な様子になったところで、それでもと思って9月に庭の片隅に切り戻しを植えておいたら、写真の如く蘇って、今持って花をつけてくれる。

来春には金蓮花は日差しの当たり具合を選んで、今度は直に植え付けしたほうがいいということが分かった。。

ハーブ類はお料理とかにちょい摘みしやすいところに、まとめがち?に植えよう。

   フェンス沿いにブリーサルビアはまだまだたくさん咲いている。

   

   

     レンガ敷きは途中で、来春にやり直しが必要かも

        

     もっと早く他の金蓮花も切り戻して塀の端に庭植えすれば良かった・・・

試行錯誤の花植えだったけれど、少しは感じが掴めた。

あとは、タキイに注文したクリスマスローズ(白)とセントランサスの苗が届いたら植え付けて(来春の支度)、まだ頑張ってる花をちゃんと切り詰めたりして、今年はお仕舞い。

 

おっと、ハナミズキヤマボウシアオダモの剪定があるけれど、こちらが一番の問題児?

8月末あたりから虫がついて、ホント、往生した・・・

木をだめにするかもと思ったけれど、なんとか大丈夫そうだから上手に剪定して、来年はくれぐれも早目の虫発見に努める。

 

草刈り草取りの差は大きい

島根県の山中にいた時は、家周りや道路沿いの草刈りに追われて、花のお世話(花柄詰みとか切り戻し)がおざなり、というより、ほったらかしになって、残念なことが多かった。

     

      島根にいたときの、家前の庭、というより、大きな柿の木の下周り

田舎の庭は、こんなふうに蓬やらふきやらたんぽぽやらすぎななんかと一緒にお花が咲いていた。

これはこれでいい感じなのだけど、そのうち花より雑草の方が勝つから、負けないように草取りするのが、結構なストレス。

その上、こういう草がちなところへは足を踏み入れるの怖い・・・

蛇がいるでしょ、それに例のムのつくお方が絶対にいる。しかも恐ろしく大きいのとか・・・

 

函館の庭は、まず、「草刈り」は必要ない。「草取り」で済む。

朝のゴミ出しのついでに、サンダルばきでちょこっと花柄詰みなどできるから、花の方も元気でいてくれるんだと思う。

来春はもっと充実するだろうから、楽しみです。

 

 

 

 

水底の歌 2

「誤解の上に誤解、幻想の上に幻想を重ねて〜」と言うが・・・

「水底の歌」で、やはり、出てきた。

沢瀉久方の「万葉集注釈」の多くを引用して、梅原猛はちゃんと知っていたにもかかわらず、

いともあっさり切り捨てている。

〜沢瀉氏は、茂吉の、貝=峡説ばかりではなく、湯抱=湯ヶ峡(ゆがかい)説の学問的代弁者となろうとしているようにすら見える。〜(132頁)

〜私は、貝が峡のあて字などということは全くあり得ないと思うが、意味からいってもおかしい。〜(130頁)

      

梅原猛は、茂吉が江の川にこだわるのを、「専制君主か」みたいな言い方でもって批判し続けるのだが、その批判を読む方からは、あなたも・・・じゃないんですか・・・みたいに感じにならないでもない。

 

「全くあり得ない」と言いながら、その根拠は述べていない。

梅原猛にとっては、どうあっても人麻呂は海で死ななくちゃならないことになってるんだから。。。

もちろん、「水底の歌」まだまだ膨大な量が続くから、やはり、ここも待ちながら読んでいこう。

 

で、一般ピープルとしては、だね、

1、柿本人麻呂は確かに石見の地で過ごした、

2、しかも現地妻を持っていた、

3、彼女を残して帰京した

この3点は、確かであって、持統朝サロンで石見の地での相聞歌を、大いにフィクションをまじえて披露し、サロンの要求を満たした、そんな言い方でひっくるめてしまうのは、承服しかねる。

 

萩・石見空港に降りたって、正面の駐車場に向かう。

そこにある石碑

  石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか

私はいつもこの人麻呂の歌をしみじみと眺めたものだね。

どうということもない歌のようだけれど、なんか、いいんです。。。

 

人麻呂が通った古代の道は?

このことも知ったが、奈良時代国府は仁摩町にあったんだそうだ。

今の浜田市国府町跡は、平安時代になって国府が置かれたところだそうだ。

人麻呂が国府の役人であったとすれば、仁摩町の方の国府だったことになる。

 

そうすれば、江の川を遡るとなれば、仁摩町から江津市まで行くことになるけれど、この距離は、浜田市から江津市へ行くのと、さほど変わりはないようだ。

帰京するには、石見国府から海岸沿いに出雲へ出て、鳥取へ入るというより、江の川から川の運輸を使って三次へ出て、瀬戸内航路をとる方がしっくりくるのですが。

つまり、人麻呂は妻と別れて、妻が袖振るのを、木の間から見たいと思っただろうと。

 

 

 

水底の歌

梅原猛さんの熱量が半端ない

梅原猛著作集全20巻(集英社)は1981年?から順次発行されて、11巻「水底の歌」はその第4回配本で、1982年1月15日に発行されている。

この著作集は発行されるたびに、当時の私は買い求めたはずだが、すぐに読むことはしないでいた、と、思う(なんか、仕事と子育てで・・・)。

後になって「水底の歌」を読んだのがいつだったか、とんと記憶にないから、今、やっとこさ本気を出して読み始めたということになる。

      

       お恥ずかしい・・・帯を無くして
梅原猛の書き様?に圧倒される、というか、まずは斎藤茂吉への怒涛のような批判(こう言ったら叱られる・・・)に、いやいやなんとも、遅々としてページが進まない。

  読書は寝る前の時間帯だけの、今の日々なので(言い訳です)

読み飛ばしてもいいのかもしれないが、一言も聞き逃したくない(読み落としたくない)心理が働いているから、諦めて、ここはじっくりいくしかないかなあ〜というのが今の心境だ。

 

で、今の段階で気になっていることを書いておく。

 

茂吉が鴨山を望んだ「湯抱温泉」のこと

私の記憶では「ゆがかい」と石見の人たちは言っていた(ゆがかえ、と言う人もいるにはいた)。

検索したら、やはり「湯抱温泉(ゆがかいおんせん)」とホームページにある。

 

茂吉も人麻呂の歌の「石川の貝」を「石川の峡」と採る方に向いていたが、「貝」と「峡」については、昔むかしから結構なポイントなんだろうに、「湯抱」を「ゆがかい」と呼ぶことについては、茂吉も梅原猛も、なんら触れていない(今まで読んだところまでの話)。

 

二人とも石見に実地調査しているわけだから、地元の人に案内されて「ゆがかい」と言われたはずで、気に留めなかったか、聞き逃したか、土地の人の「なまり」のようにしか思わなかったか、

あるいはどこかで触れているのかもしれないのだが、気になってしょうがない。

 

「湯の峡」、と感じてよい地

私が石見地方にいた頃、夫と三瓶山に登った帰りに、この温泉で汗を流したことがあった。

あまりに黄色いお湯なので、髪の毛を洗うのはためらわれた。

 

また、住んでいた中国山地の中の村の、我が家の隣のおばあちゃんは、

「秋の農作業が終わったら、湯抱(ゆがかい)に湯治に行かせてもらったもんだ」と話してくれた。

お米を持って自炊しながら、10日か半月か、逗留したそうだ。

 

この村は浜田市から中国山地に入った村だから、昔は乗合バスで浜田市へ下りて、山陰本線江津市まで行き、そこで江の川沿いを走る三江線(現在は廃線)に乗り換え、江の川に沿って1時間半くらい?、粕淵駅で降りる。

さて、そこからはどういう交通手段でで「湯抱温泉」まで行ったのだろうか。

乗合バスがあったのだろうか。

朝早くに出て、暗くなる頃に着くような所へ、求めて湯治に行くのだから、古くから湯治場として石見では名のあった所なのだろう。

 

江の川三江線が走るようになるまでは、川が運輸の機能をしていたと聞く。

日本海に流れ込む江津の港から、中国山地の山間を遡り、広島県の三次の地とを結ぶ、運輸の本流が江の川だった。

湯抱温泉に行くには粕淵の地から入るに違いないが(石見銀山からの経路もある)、粕淵は、江の川の運輸ではきっと重要ポイントだったはずだ。

今では昔の賑やかな名残はない町になっているが、山陰から江の川を遡って中国山地を越え、山陽へ出ようとする旅人にとっては、粕淵からその先へ行った湯抱温泉で一夜を過ごすことは、想像できる。

 

で、うんと古く遡って、古代山陰道が機能し始めるのは奈良朝期以降のようだから、よしんば人麻呂が石見国府から藤原都を行き来したとして、江の川沿いから中国山地の山間、ないしは尾根を越えて、安芸方面か備後方面へ出る、そうして瀬戸内海の海の行路をとると想像しても、さほど違和感はないように私には思われる。

 

江の川沿いの「渡」の地、その裏を山越えして「矢上」の地

梅原猛が言うように、

柿本人麻呂万葉集の「石見国に在りて死に臨みし時、自ら傷みて作れる歌」以下五首をきちんと信じるなら、人麻呂の「妻に別れて上り来る時」の長歌も、きちんと信じてみてもいいのではないかと・・・私は思うのだ。