観光客はまばらで・・・
津和野の太皷谷稲成神社に行ってきた。
日本五大稲荷があるそうで、この太皷谷稲成神社はその1社
春めいた陽差しなのに、津和野の町は閑散としていて、島根、鳥取県の知事の憂慮もいかばかりかと頷ける。
土日は人出も多いだろうからと、あえて金曜日にしたので、土日ならもう少し観光の人もあったかもしれない
津和野の町は本当に小さい。
昔々なら、この町から出て行こうとすると、あちらもこちらも、向かいに立ち塞がるような山を強く感じたに違いない。
この津和野藩のご城下で幼少期から青年期を過ごした西周がいる。
西周の旧居には今回初めて行ってきた。
川を挟んで向かいに森鴎外の生家がある。西の家も鴎外の家も津和野藩主の御典医で親戚同士だが、森鴎外と西周には血縁関係はないそうだ。
隣の萩市には吉田松陰の旧家があるが、似たような造りになっている。西周は蔵が勉強部屋だったとも書かれている。
榎本武揚は勝海舟の長崎海軍伝習所で学んだ後、幕命でオランダに軍艦発注に行ったとあるから、その折に西周も行ったことになる。
従って二人は津和野城下の道々で、一方は青年として、一方は幼い少年としてすれ違ったりはしていないだろう。
川を挟んで、お互いがその人影を見たということもないはずだ。
あるいは明治になって、その要職によってすれ違うことはあったろうが、彼らにこの津和野城下の情緒はどのような意味を持つのだろうかと、やはり考えてしまう。
駅前にある安野光雅記念館には、中学生の一団が見学に訪れていた。
卒業式はどこも終わっているから、在校生のお別れ遠足か、総合学習の見学なのかもしれない。
太皷谷稲成神社を降りて、町中を歩いていたら、自由行動の時間になったのか、みんなから離れてひっそりと男の子と女の子がベンチに腰掛けて話し込んでいた。
木漏れ日が美しかった。
10代前半の彼らには、津和野の町がどうのこうのとは思わないだろう。
けれどもどういう町で幼少期や青年期を過ごしたかは、必ずその人物の人格のなにがしかを、深い所で形成しているように思われてならない。
津和野の町は、小さいながらも大きな人を生んだのだと、特別な町のような気がする。