石見地方に住んだのなら、やはり梅原猛氏に敬意を表して、益田市の柿本神社をお参りすることなくしてこの地を去ることはできない。
というわけで前々から気になっていたにもかかわらず、近いことをいいことにして放っておいたことを果たしてきた。
斎藤茂吉が人麿終焉の地とした湯抱湯谷は訪問済み
神社巡りとかはあまり興味がなく、たまたま通りすがりに不意に出会った小さな鄙びた神社などにはそれなりの思いを感じる。
従ってこの柿本神社については、柿本人麿を思う気持ちとは、私の中では紐付かない。
神社はたいそう立派であった。
急な石段を登っていると、金木犀の香りが体を包むように香っていた。
拝殿奥の正殿が脇から少し見えたが、こちらは何とは無しに神さびた感じを漂わせていた。
本当に大事なものは見えないのである。
この神社の続きというか、神社が作られてから時代を経て山の全体が「万葉自然植物園」として散策の道になっていた。
「万葉集」に歌われた木々とその歌をめぐるようになっている。
一番高いところに、梅原猛揮毫の「柿本人麿 終焉之地鴨島 遠望台」の碑があった。
残念ながら、立ち入り禁止になっていて、高津川河口方面を遠望することはできなかった。
代わりに、この柿本神社は津和野の方向に向かって拝殿が建てられているそうで、正面を背に立つと、確かに遠くまで見渡せた。
この拝殿の横にある人麿像、梅原猛はどう思った?
津和野は別格
話がそれるが、津和野はぜひ訪れるべきである。
道路下に、あの小さな盆地が不意に現れるのを見るのはなかなかいい。
津和野生まれで津和野高校出身の女性を知っているが、
「ねえ、あの津和野の町で子供時代を過ごすというのは、どんな感じなんだろうね」と、思わず問いかけたことがある。
またまた話が飛ぶ。
昨夜、この村の大元神社から届いたお知らせ(例祭のみで石見神楽の奉納などは中止)には、この神社の由緒が添付されていた。
「文武天皇の御宇、有間の王子・長忌寸は臣下なりしが 後文武天皇に召し出されて
石見の目(さかん)となり、此の所に住み給う〜〜〜」
う〜ん、柿本人麿さんも同じ時代に、下級の国司として石見国庁に赴任したというのが定説だそうだが(ここのところを梅原猛はとんでもない!と言ったわけで)、こんな山奥に仮にも国司・目のお役人がお住みになったのでしょうかね〜〜〜
確かにこの村には津和野街道の遺構が山の中に残っていて、砂鉄採掘の鉄の道もあり、近世にはそれなりの体裁を構えていたではあろうが、さすがに奈良時代となるとねえ〜〜〜
またまた飛ぶ。
昨夜聞いたNHKらじるらじる聴き逃し「歴史再発見」の「朝鮮半島から見た『古墳時代』」第2回のお話では、
4世紀後半には北九州経由よりも、瀬戸内海から日本海へ、そして隠岐の島、対馬、朝鮮半島の経路が有力になってきたのではないか、というようなお話だった、と思う。
そうすれば、中国山地越えのルートはしっかりあったはずだし、石見国もそれなりのポジションを持っていたことになるかもしれない。
それならば、人麿が国司として赴任するということが、そんなに突拍子も無い話でもないのかもしれないと思うのである。
あのね、あなたの細切れというか、そういう不思議は不思議で良いですから、まあ、しっかりおヤンなさい。。。。