パルメニオンと呂不韋はともに死を賜った
B.C.336 マケドニア、アレクサンドロス、王に即位 20歳
B.C.334 アジアに攻め入る 21歳
B.C332 中近東全域制覇、エジプト制覇 24歳
B.C.330 パルメニオン自死 26歳
B.C331~ ユーフラテスとティグリスの両大河を渡り、ペルシャ帝国中枢域を制覇 25歳
B.C.326 インドインダス河まで到達、アレクサンドロス大王領となる 30歳
B.C.323 アレクサンドロス死
「世界史年表」吉川弘文館
アレクサンドロスがインダス河に達したB.C.326年頃は、中国戦国時代の秦国はやっと一つの国の体を成した頃だ。
その70年数年後に嬴政は生まれている。
古代西域交通路は開拓されていないから、インド北部のサマルカンドまで行ったアレクサンドロスは、その先の中国を想像しただろうか。
B.C.246 秦、嬴政即位 13歳
B.C.237 呂不韋罷免 21歳
B.C.230~222 韓、趙、魏、楚、燕を次々と滅ぼす 28歳〜
B.C.221 斉を滅ぼし、秦 統一なる 38歳
若き二人が成し遂げた覇権の陰に、意外な共通点?
ギリシャ制覇と東方遠征を支えた将軍パルメニオンは、自分の息子の不祥事の責めを負う形で自死する。
塩野七生さんが「ギリシャ人の物語 4」で書くパルメニオンの死の状況は、アレクサンドロスに好意的?と受け取っていいような気もする。
塩野さん自身も
「確実な史料はない。〜想像するしかない。」と言っている。
「〜もしも老将が王の勧めを拒絶したとしたら、マケドニア軍はどうなるだろう。〜
〜彼は、盟友と言ってもよい仲であった先王の跡を継いだアレクサンドロスの才能を完全に認めていたし、自分の息子でもあるかのように愛してきたのである。〜」
そうしてこの辺りから、唯一無二であるが故に孤独を強めていくアレクサンドロスの心のうちを、塩野さんは優しく共感している。
〜秦の始皇帝については、中国社会のタブーに深く関わる出生の秘密があった。
〜司馬遷は、「秦始皇本紀」には書き込むことはしなかったが、同じ『史記』の「呂不韋列伝」を読めば、この秘密がわかるようにしくんだのである。
司馬遷が始皇帝を「実の父を死に追いやる男」というふうに書き残したのは、「史記」という書物の性格、司馬遷というその人物像から差し引いて事実はどうだったかを、もう誰も知ることはできない。
宮城谷昌光著「奇貨居くべし」では、政の出生についてはぼかして?書かれている。
政は呂不韋の実力を恐れて死に追いやったふうな感じだ。
呂不韋がどのような思いでその死を受け入れたのか、また秦王政の思いなどには触れていない。
以上、長々と、もしかしたら正確ではない私の思い込みも入っているかもしれないが。。
つまり、西と東の古代史で、若き大王と、若き皇帝は共に、自分を見守り育てた老兵を自身の権威の完成の過程で捨て去っているのだ。揺るぎない権威が必要であったのは確かだが。
「老兵は消え去るのみ」というわけでもあるまいが、世代交代?というか、時代を推し進めていくのは若い力であり、一方で、その若い才能を見抜き、育て、信じた大人がいたからこその覇業だったと思ってもいいのじゃないだろうか。
それにしても、その若き才能が瞬く間に成し遂げた覇業は、その死の後にはあっという間に崩れ去るのだ。
う〜ん、しかし、紀元前の話なんだよなあ・・・
歴史は進歩しない?歴史は繰り返されるのみ・・・