bull87’s blog

田舎の暮らし〜こんなふうです〜老後をお考えの方、参考に〜Iターンを選択肢に入れてる方、参考に〜なるンかなあ・・・

上質なサスペンスのよう・・・2

「〜万葉集巻1、巻2の終わりが、共に志貴皇子関連の歌で終わっていたのかもしれない〜」

NHKラジオ「古典購読」の「万葉集」25は「志貴皇子とその周辺」のお話で、鉄野昌弘先生はこう仰った。

 

う〜ん、やっぱり「万葉集」は上質なミステリだと、私はいたく胸がときめいたのだった。

 

つまり、天武天皇の直系皇統がいなくなって、ふってわいたように天智天皇の皇子の中でも最も皇位継承から遠かった志貴皇子の子、のちの光仁天皇へ、皇統が戻っていくのだったね。

光仁天皇の頃には大伴家持の処遇も回復されて、「万葉集」が完成した頃じゃないか?

 

巻1、巻2の巻末に志貴皇子関連の歌を置くというなら、すごく頷ける話だね。

 

柿本人麻呂はなぜ姿を見せないのか

持統朝の末から聖武天皇とそれ以後のゴタゴタ?というか、律令体制が形を整えるダイナミックな歴史の動き、その過程で藤原不比等の成したそれぞれ、そういうことを思うと、その非常に重い歴史の流れの中で、柿本人麻呂が突然姿を消して、人麻呂の一切が「水底」に沈んだのだとしても、不思議な話ではないと、私は思ってしまったのだね。

 

鉄野昌弘先生は「下級の官僚であった人麻呂」と言われたが、梅原猛の「水底の歌」を読めば読むほど、本当に人麻呂は下級の官僚であったと決めつけていいのか?そういう気持ちが大きくなる。

一方で、下級官僚であったとしても、それはもしかしたらどうでもいいことなのかもしれないし、人麻呂の官僚組織の中での地位とは別の、何か大きなミステリが潜んでいるんじゃないかと・・・

巻1、巻2の巻末が志貴皇子関連の歌で終わっていたというなら、巻2の巻末近くの、柿本人麻呂の歌、あるいはそれ関連の歌に、やはり、ある意図を思ってみてもいいのじゃないか。

 

分からんよ、人物相関が入り乱れて・・・

私は、函館中央図書館に行かざるをえなくなった。

私が持っている「日本史年表」(吉川弘文館)ではぜんぜ〜ん!間に合わなくなった。

   

 これは2020年発行、高校日本史では今もこれを使ってる?

そして「万葉集」の皇子たちの歌に現れる異母兄、異母妹の悲恋の歌、はたまた政争に敗れた皇子の歌・・・それやこれやで「人物相関図」が欲しくなったのだ。

 

で、一緒に借りてきた「奈良貴族の時代史 長屋王家木簡と北宮王家」(森 公章著・講談社選書メチエ 2009年刊)が、またまた非常に面白かった(まだ読み中)。

  

 長屋王家木簡、バンザイ!っていうくらい、すご〜く面白い

北宮というのは高市皇子の宮のことではないかと推測されているのだ。

高市皇子の子・長屋王の周辺には藤原不比等の影が濃い。

というより、不比等の妻で光明皇后の生母・県犬養宿禰三千代(橘三千代)、この女性が影の黒幕?みたいな存在だったらしい。

天武朝から後宮に出仕し、持統・文武・元明・元正・聖武と、歴代の天皇に仕えている、強者だね。

高市皇子の子・長屋王サロンの宴には、山上憶良も参加しているし、それならと、私は、人麻呂の影を探し求めている・・・

 

話が逸れていったけれど、「高市皇子挽歌」を詠んだのは柿本人麻呂だ。

山本健吉は、献呈挽歌の代表的作者が柿本人麻呂だと言い、

「明らかに殯宮のとき作った歌と明示してあるのは、日並皇子尊(167)・明日香皇(196)・高市皇子尊(199)の薨去に際しての三篇であり、左注に『河島皇子を越智野に葬る時』とある歌(194)もそれに準ずる作品である。」

と書いている。(「柿本人麻呂」)

いずれも、持統朝から文武朝の頃で、藤原不比等が力をつけ始めて、律令体制が整う前段階の、まあ、古いものと新しいものとのせめぎ合い? 風雲急を告げる? なんとなく、不穏な空気感?がみんなのお尻の下を覆っていた笑

そんな頃に、柿本人麻呂は、渾身の力を込めて、挽歌という長歌の完成形を見せたのだ。

終わっていくある時代の、最後の荘重華麗な輝きだったというのだろうか。

 

不比等にとっては柿本人麻呂は過去の遺物?いなくて宜しい?存在だった・・・

不比等は着々と、律令体制確立に邪魔な存在、過去の遺物を排除していったのではないか。

 

ところで、持統三年(698)に、志貴皇子を頭とした撰善言司(よごとつくりのつかさ)という役所が作られ、この役所に当時の知識人が集められて、

「一つの創造的な気運をかもしだしてゐたことを、想像してもいいだらう。」

「この役所がつくられた持統三年は、年次の明らかな人麻呂の歌が最初に見える年でもあった。折口博士は、こ撰善言司に人麻呂が属したいたのではないかと想像してゐる。」山本健吉柿本人麻呂

 

志貴皇子万葉集の歌には、ある個性が漂っている。それと、万葉集編纂に関わる、重要人物でもあるのだが・・・

大伴家持との関係というか、交流というか、ここらあたりは、また「古典講読」で鉄野昌弘先生からお話があるかもしれない。

 

あ〜あ、あれやこれや、私の頭は、支離滅裂・・・