bull87’s blog

田舎の暮らし〜こんなふうです〜老後をお考えの方、参考に〜Iターンを選択肢に入れてる方、参考に〜なるンかなあ・・・

高橋虫麻呂さん、大伴旅人さんと筑波山に登る?

NHKラジオ「古典講読 万葉集」27回  

(もうこの講読は30回くらいになっているはずだが、私は聴き逃しで聞いているから遅れている。この聴き逃しには期限があるから焦るってこのブログに書いたら、親切な方が「『らくらじ』で保存できるよ」と教えてくださった。よって、早速「らくらじ」で保存し始めたので、至って安心。おかげさまです。)

「富士山の歌と筑波山の歌(巻3・9)」という副題がついている。

この中で高橋虫麻呂筑波山長歌が、なんだか、いいなあと思ってしまった。

 

検税使大伴卿 筑波山に登る時の歌一首 と詞書にある。巻9 雑歌 (1753)

「筑波乃山乎 欲見(みまくほり) 君来座登(きみきませりと)熱尓(あつけくに)汗可伎奈気(あせかきなけ)」

「嘯鳴登」(うそぶき登り)「歓登」(うれしみと)「今日之楽者」(今日の楽しさは)

 

都から大伴卿がはるばる来られた。是非とも筑波山に登っていただきたいと、夏草を押し分け、木の根っこを掴みながら、ふうふう言って嶺上に辿り着いてみれば、今日は運よく晴れ渡って(「清照」)、国の絶景が隅々まで見渡せる。

嬉しくて、服の紐を解いて、家にいる様にくつろいで遊ぶことだ。

春に来るよりも、夏草が生い茂っているからこその、今日の楽しさは格別だ。

   鉄野昌弘先生の現代語訳のとおりではないのですみませんけれど、まあ端折ってこんな内容の歌。

 

この感覚、今とちっとも変わらないですよね。

遠来の客に一番のおもてなしを、と思う気持ちとか、汗をかいて、山の頂上で、ああ、気持ちがいい、とか、何よりこの地のいいところを友と共感できたこととか、そういう嬉しさが伝わってくる。

東国の国司に追いやられてても、そんなにくさらないでお仕事して、私生活も充実してたんだって思うよ。

 

鉄野昌弘先生は、この「検税使大伴卿」には諸説あるが、「大伴旅人ではないかと思う」とおっしゃっている。

そうですか、大伴旅人さん。。。

 

家刀自の働きで家は持つ?

で、ちょうど先日読んだ「奈良貴族の時代史 長屋王家木簡と北宮王家」(森 公章著)で、皇族・北宮王家との家産経営を比較するのに、旧豪族の大伴氏を例にあげられていた。

    

     p186にある大伴家の大まかな系図

①旅人死去後、まだ家持も出仕前で、一族に五位以上の有力官人を出していなかった頃のこと

②家持叔母の坂上郎女が大伴家の家刀自として家産管理でどんなふうに頑張っていたか。

坂上郎女は秋には田庄まで出向いて滞在し、収穫作業の指揮を行なっていた。

平城京にいた家持は田庄から送られてくる叔母の歌に応じていた(万葉集)。

 

そうかあ、昔の権勢は及ぶべくもない大伴家、それでもやはり大奥様が田んぼまで出向くっていうんだから、なかなかのもんだ。そうして歌まで家持の手解きができるんだからね。

不比等だって、橘三千代のお陰が、ものすごっく大きいらしいから、昔々はジェンダーフリーでみんなイキイキしてたみたいだなあ。

 

大伴旅人は亡くなる時には大納言までになっているから、家産の管理も大変だったのだろうが、嫡男として大伴家を継いだ家持の苦労は並大抵じゃあなかっただろうな。

大伴家持聖武天皇の代に越中守・従五位上を賜ってから以後、平城宮ないし政界のゴタゴタ続き?の中で、おそらく生きた心地のしない壮年時代を過ごしたに違いない。

あっちへ飛ばされ、こっちへ帰され、まあ最終的には正三位まで登っているのだが、これは皇統が天武から天智に戻ったことでのことだろうか???

 

それにつけても、この森公章先生の本は専門的なので、キツイっちゃキツイんでありますが、どこの荘園からどれだけ米が入ってくるとか、調庸の細かなことまで管理している貴族の家産経営には、びっくりだ。

 

柿本人麻呂が、この北宮王家の祖・高市皇子の挽歌を歌ったのだね。

一つの時代の終焉、新しい時代の始まりの中で、人麻呂はどこへ行ったのだろうか。