映画の感想で、司馬遼太郎の「愛蘭土紀行」のことを書いた時、
須田剋太画伯のことを「この旅を共にした」と書いてしまった。
私の司馬遼太郎さんの本は付箋だらけ。比喩表現とか、いろんなことに話が進むので付箋しとかないと困る・・・
須田画伯は明治39年生まれということで、「気温の変わりやすい彼の地で風邪をひかれてはと思い、同行して頂かなかった。」というのが事実であった。
映画の感想がうまく言えなかったために、ぱらぱらと「愛蘭土紀行」をめくっただけだったから、そうなった。
須田画伯のスケッチの後に、この地図が載っている。
で、昨晩から「愛蘭土紀行 Ⅱ」を読んでいる。
次から次と、出てきますね〜
依怙地さ、孤独、病的なほどの目的主義、自己への信仰、他との不調和、勝利への確固たる幻想、無名性と反俗、さらには神話的な英雄性といったアイルランド的典型
これはアイルランド移民を父にもつジョン・フォード監督の映画「駅馬車」の主人公ジョン・ウェインのことを書いた文である。
こんにち、英米の小説でアイルランド人が登場すると、たいていは奇行、奇想、あるいは非協調の人物としてえがかれている。本来のケルト的性格の上に、こんな目に遭えば、ふしぎな人間(それが才能にもつながる)にならざるをえないのではないか。
「こんな目」とは、17世紀にクロムエルがアイルランドに攻め込み、異教徒(カトリック)であるアイルランド人を大虐殺し、アイルランド農民が英国人(プロテスタント)の小作人とさせられたことを話すところで書かれている。
「イニシェリン島の精霊」の中の人物像の不可思議さを言い得て妙ではないだろうか。
まだある。
御伽話の背景のように美しいアイルランド的な田園が見る者を夢の中に誘いこんでくれて、これからどんな浮世離れしたことがおころうとも、この景色の中では当然だとおもうようになる。
この文などは、全く映画の中の出来事を言っている。
また
ふつう、アイルランド女といえば、
「悍馬のような気性」
とされる、この映画のなかでメアリー・ケイトという名の娘に扮するモーリン・オハラも、悍馬としての典型をダイナミックに演じてみせる。
(「この映画」とは「駅馬車」のこと)
コリンの妹のケリーも毅然としていて、その美しさと優しさの奥に「悍馬」の気性を秘めているのを感じさせる。
白く青ざめた岩、崖、岩盤、絶壁。黒い大西洋にむかって吹きとばされそうになる自分。静まりかえる大きな空虚。
これはアラン島へ同行されなかった須田画伯がおっしゃられた言葉だそうだ。
映画は、張り詰めて、それゆえに美しい風景を映し出していた。
ラストのシーン、海に向かった断崖絶壁に立って、島を出ていく妹の小舟に向かって大きく手を振る。
今、この美しいカメラワークを思い出す。この「映画を観た」、という実感が湧く。
すばらしきかな、マーティン・マクドナー監督。