「しびれる短歌」3
今日の夕食はハンバーグです。
午前中、村の「すくすくサロン」に出かけて、8人の赤ちゃんと8人のママと過ごしたら、疲れちゃった〜
12時過ぎに終わって、お昼も食べないで下の街まで買い出しに出かけたら、ハンバーグだ!って決まった。きっとお腹が空いていたんですね😅
珍しくハンバーグを検索して、調味料とか正確に下ごしらえを済ませました。
あと、トマトスープにします。
というわけで、まだ5時。
あと2時間はパパのご帰還にはなりませんので、先ほどの短歌がらみで・・・
数年前、司馬遼太郎の「街道をゆく」の「叡山の諸道」で、とてもいい歌を知りました。
最澄が22歳の時の歌。
あのくたら さんみゃくさんぼじの仏たち 我が立つ杣に 冥加あらせ給え
「『あのくたらさんみゃくさんぼじ』というのは最高の真理を悟った境地という意味のサンスクリット語で、そういう外国語を歌の冒頭に持ってくるという大胆さは、作意を超えた懸命の声とはいえ、凄みがある。」(司馬遼太郎)
この歌は新古今集に収められたそうだが、知らなかった。
司馬遼太郎さんの最澄を語る文脈の中で、この歌を知った時、ため息が出た・・・
22歳の青年が、俗に落ちた奈良を出て比叡山の山の中へ向かう、その決意というか、心の高揚というか、初々しさというか、やっぱり、ため息、としかボキャ貧の私には言いようがない。
司馬遼太郎は「山頂を一陣吹き去ってゆく真冬の西風のように清らかである」と言う。
私には、ただただ青年の初々しい美しさが心に迫る。
結局、やはり、勉強はせなならん!!!
新古今集って言ったって、その世界はとてつもなく広くて、もっと好きな歌に出会えるかもしれないのですよ。
そのためにはやはり知識が必要だ!
歌は一個の三十一音で世界を味わうことのできるものだけれど、それぞれの文脈の中で活きる歌もあるのだから、知識が必要だ。
で、現代短歌って、あまりよく知らないけれど、映像を伴わないと成立しない?歌ですか?
言葉の持つ力、もちろん、言葉はとてつもなく長い歴史を生きて今、ここにあるのだけれど、その言葉の力だけで成立する歌、そういう強さを、「しびれる短歌」の歌の中に、私は見いだすことができない気がしている・・・