緑の綺麗な季節です
確か、棚田百選にも入っていたような気もするが、定かではない。
何かと人口減で人手不足は目に見えて、一望に棚田風景、というわけにもいかない。
断捨離せんとや生まれけむ〜〜〜
さて、来春の今頃には終の住処に引越しと確定したこともある。
また、7月には別件で函館に行かなければならないので、その際幾らかの荷物を送り込んでしまいたいということもあって、仕舞い込んでいた段ボール箱詰の本を取り出して、もう一度断捨離断行となって、広げたまま1週間になる。
昨夜、夫は言った。
「司馬遼太郎は、もう、いいんじゃないの」
そう、確かに「坂の上の雲」とか、もう読まない99%確定本だ。
それなら、競馬道?関係の本とか、これはどういう扱いになるのかな。
寺山修司と虫明亜呂無の対談「競馬論」、これを「どうするの?」とは、私は夫に聞かないで残している。
古色蒼然ながら、輝きを失わない。こういう本はもう無い。
で、司馬遼太郎はもういいのか?という意見についてだが、それはそれで頷く面もある。
けれども、である。
昨夜「峠」の下巻で、こんな言葉に出会った。
妻のおすがの月代の剃り方が実にうまいという場面で、
「目と心を一つにして、ねえ」
と、継之助は、その言葉に感じたようにつぶやいた。「スーッと剃るか」
河井継之助の、幕末の騒乱の中での身の処し方は、この「目と心を一つにして」という定めを自分に課したことだったのだろうと、合点がいった。
「目と心を一つにして」身を処する、というか、生きる、というか、これのどこをもって「司馬史観はもう古い」と言わせるのだろうか。
以前、朝井リョウの「スター」の読後感で、私はこんなふうに書いた。
で、こんな小さな世界の境界を飛び越えることができるのは、『目』と『心』だけだという、これまた、陳腐な、元の鞘に収まるみたいな、とりあえず、そういうことにしておくしかないという思考の行った先が、ある意味、寂しくもあり、ホッとしたというのは、それこそ退化じゃないかというもの足りない感じが残る作品だったな〜
もし、こんな小さな世界の境界を飛び越えることができるのは、『目』と『心』だけだ、と、朝井リョウが20代の二人に思わせたのだとしたら、司馬遼太郎は朝井リョウと同じところにある。
文久ロスジェネ世代?
さてさて、河井継之助は松本良順に破傷風の治療を受けに、籠城の最中にある会津に連れて行かれている。
数年もどって、やっぱり文久年間、あそこで人は「目と心を一つにして」生きていくことになるのか、ならないのか、その究極の選択を強いられたのだ。
森鴎外とは、文久年間のロストジェネレーションだったのではあるまいか。
マッチする 束の間見えし 霧の海 身捨つるほどの 祖国はありや 寺山修司