たまにはちゃんと考えろ!
反省 1
昨日はほとんど社会的生活を送らないで、1日を過ごしてしまった😞
一日中、全豪オープンでテレビか pc(WOWOWオンデマンド)がつけっぱなし。
またまたアジアカップで12時まで観戦・・・
弁明すれば、朝イチで小学校の読み聞かせには行った。
朝、昼、夜の食事は作った。お洗濯もした。
来月の地域のお便りの原稿も、公民館へメールで送った。
けれども、寒中見舞いを2通、書くつもりが、しなかった・・・
もう一つのブログ、これは函館の家のリフォームの過程を記録していくことにしているのだけれど、進展があったので書かなくちゃあと思いつつ、途中で下書き保存に・・・
こんなことでは引きこもりが常態化してしまう不安が・・・
反省 2
放っておいた「しびれる短歌」の最後らへんを読んだら、これは良い本だったと気持ちが変化した。
昨夜は付箋まで貼り付けてしまった。
付箋 ゐ?
「東 そこに普遍性があるからね。固有名詞なんだけれども普遍性を帯びたものだから、そこに物語が入ってつながる。」
「穂村 昔でいうペーソスになるのかな。最近あまり言わなくなった言葉ですね。何だろう、哀感っていうのかな。」
「東 そう言えばあまり使わないね、抒情は使うけど。やや厭世観が入っているのかな。」
「穂村 今なら脱力系の悲しみとでも表現するのか。」
付箋 ろ?
「穂村 フォルム以外のアイデンティティーという部分は万人が同意しているものはないわけだから。それは短歌観の違いでしかないということになっちゃうんじゃない。」
「第八章 表現の面白さだってある、トリッキーな歌」というところから、俄然、短歌というものそのもののを問う対話が始まった?
で、私はゆる〜い「目から鱗」状態を経験した。
第一、私ら年代にも、「脱力系の悲しみ」って、なんとなくだけど、それがあるということはわかる。その自己表現として短歌を作る人だっているわけだ。
「短歌観の違い」と言われると、まさに私が持った違和感がそれだ。
で、なんでもすぐに反応するのはやめて、ちゃんと、立ち止まって、しっかり考えなアカン!ということ。
「なんでもすぐに反応」って、コレ、脳みそとか、心とか、五感とか、こういうのが凝り固まっている証拠なんじゃないか。
脳みそとか心とか小さくなっているから、すぐに反応してしまう、漂って、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、振り子を揺らして、揺らしながら広げていく〜こういう作業が、私はきっとできなくなっていた!
コレが「老いる」ということなんだ!って〜「しびれる短歌」の数々に感謝します?