「誤解の上に誤解、幻想の上に幻想を重ねて〜」と言うが・・・
「水底の歌」で、やはり、出てきた。
沢瀉久方の「万葉集注釈」の多くを引用して、梅原猛はちゃんと知っていたにもかかわらず、
いともあっさり切り捨てている。
〜沢瀉氏は、茂吉の、貝=峡説ばかりではなく、湯抱=湯ヶ峡(ゆがかい)説の学問的代弁者となろうとしているようにすら見える。〜(132頁)
〜私は、貝が峡のあて字などということは全くあり得ないと思うが、意味からいってもおかしい。〜(130頁)
梅原猛は、茂吉が江の川にこだわるのを、「専制君主か」みたいな言い方でもって批判し続けるのだが、その批判を読む方からは、あなたも・・・じゃないんですか・・・みたいに感じにならないでもない。
「全くあり得ない」と言いながら、その根拠は述べていない。
梅原猛にとっては、どうあっても人麻呂は海で死ななくちゃならないことになってるんだから。。。
もちろん、「水底の歌」まだまだ膨大な量が続くから、やはり、ここも待ちながら読んでいこう。
で、一般ピープルとしては、だね、
1、柿本人麻呂は確かに石見の地で過ごした、
2、しかも現地妻を持っていた、
3、彼女を残して帰京した
この3点は、確かであって、持統朝サロンで石見の地での相聞歌を、大いにフィクションをまじえて披露し、サロンの要求を満たした、そんな言い方でひっくるめてしまうのは、承服しかねる。
萩・石見空港に降りたって、正面の駐車場に向かう。
そこにある石碑
石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
私はいつもこの人麻呂の歌をしみじみと眺めたものだね。
どうということもない歌のようだけれど、なんか、いいんです。。。
人麻呂が通った古代の道は?
このことも知ったが、奈良時代の国府は仁摩町にあったんだそうだ。
今の浜田市の国府町跡は、平安時代になって国府が置かれたところだそうだ。
人麻呂が国府の役人であったとすれば、仁摩町の方の国府だったことになる。
そうすれば、江の川を遡るとなれば、仁摩町から江津市まで行くことになるけれど、この距離は、浜田市から江津市へ行くのと、さほど変わりはないようだ。
帰京するには、石見国府から海岸沿いに出雲へ出て、鳥取へ入るというより、江の川から川の運輸を使って三次へ出て、瀬戸内航路をとる方がしっくりくるのですが。
つまり、人麻呂は妻と別れて、妻が袖振るのを、木の間から見たいと思っただろうと。