bull87’s blog

田舎の暮らし〜こんなふうです〜老後をお考えの方、参考に〜Iターンを選択肢に入れてる方、参考に〜なるンかなあ・・・

柿本人麻呂の長歌 2

🎵不思議な世界をさまよい歩いているんだね🎵

中国山地の山あいに住んでいた頃(といっても、春先までいたんですけど)、公民館がやっていた子ども達の学習教室で講師役で一緒だったT氏、何かの時に彼はこう言った。

柿本人麻呂?ああ、持統朝のお抱え歌人ね。」

W大の政経出身ともなれば、この辺りまではちゃんと押さえてるんだ〜と、まあその時はそれくらいに聞いておいた。

 

で、だ、の話なんですが・・・

NHKラジオの「古典講読」の「歌と歴史でたどる『万葉集』」は22回目を終えている。

だのに私は聴き逃し配信停止のスレスレの15回から18回くらいを、まだうろついていて、置いてきぼりになりかけている(人麻呂挽歌群は3回くらい聴いたかも・・・)。

 

鉄野昌弘先生は「フィクション」という言葉を何回か使われた。

山本健吉はこう書いている。

〜壮大華麗な修辭で、藤原朝宮廷の儀式的要求を満足させた〜

〜人麻呂における咒術的長歌の修辭的完成〜

    

        山本健吉著「柿本人麻呂」の目次

T氏がざっくり言った言葉は「正解」?なんだと、なんとなく頷いてしまう状態になってしまって、それこそ「こころもしのに」、沈んだ気分かも。。。

梅原猛さんの想像力が萎んででいきそうな気配が濃厚なんです。

 

鉄野先生がこの回あたりまでで、人麻呂の長歌反歌・短歌群から「フィクション」「時間的経過」という言葉を使われたのは、

山本健吉が言う、

〜全體としては對詠的な聲のなかから、作者の獨語的な聲が響き出す。言はば、抒情詩を生み落とさうといふ陣痛のさまを見せてくるのだ。〜

こういうことなのだろう。。。

 

例えば、石見相聞歌では、三番目の「或本歌一首」の長歌の方が私には、生き生きと感じられてしまう。つまり鉄野先生は、人麻呂が練り直した時間的経過を、こういうところに見ておられるようだ。

そうして人麻呂が、もしかしたら(というより確実に?)宮廷で詠みあげた130の長歌、131、132の反歌は、「フィクション」が勝っていく過程の結果ということになるのかな?

 

加賀美幸子さんの長歌朗読は聞き惚れる

それにしてもだね、人麻呂の長歌加賀美幸子さんの朗読で聴いていると、なんか、やっぱ、すごい!って感動しちゃうんですよ。

タイムマシンがあったら、持統朝の宮廷サロンを覗き見したいのあります。

(ああ、私、ひと段落したら、絶対もう一度梅原猛柿本人麻呂関係は読みます)