🎵不思議な世界をさまよい歩いているんだね🎵
中国山地の山あいに住んでいた頃(といっても、春先までいたんですけど)、公民館がやっていた子ども達の学習教室で講師役で一緒だったT氏、何かの時に彼はこう言った。
W大の政経出身ともなれば、この辺りまではちゃんと押さえてるんだ〜と、まあその時はそれくらいに聞いておいた。
で、だ、の話なんですが・・・
NHKラジオの「古典講読」の「歌と歴史でたどる『万葉集』」は22回目を終えている。
だのに私は聴き逃し配信停止のスレスレの15回から18回くらいを、まだうろついていて、置いてきぼりになりかけている(人麻呂挽歌群は3回くらい聴いたかも・・・)。
鉄野昌弘先生は「フィクション」という言葉を何回か使われた。
山本健吉はこう書いている。
〜壮大華麗な修辭で、藤原朝宮廷の儀式的要求を満足させた〜
〜人麻呂における咒術的長歌の修辭的完成〜
T氏がざっくり言った言葉は「正解」?なんだと、なんとなく頷いてしまう状態になってしまって、それこそ「こころもしのに」、沈んだ気分かも。。。
梅原猛さんの想像力が萎んででいきそうな気配が濃厚なんです。
鉄野先生がこの回あたりまでで、人麻呂の長歌・反歌・短歌群から「フィクション」「時間的経過」という言葉を使われたのは、
山本健吉が言う、
〜全體としては對詠的な聲のなかから、作者の獨語的な聲が響き出す。言はば、抒情詩を生み落とさうといふ陣痛のさまを見せてくるのだ。〜
こういうことなのだろう。。。
例えば、石見相聞歌では、三番目の「或本歌一首」の長歌の方が私には、生き生きと感じられてしまう。つまり鉄野先生は、人麻呂が練り直した時間的経過を、こういうところに見ておられるようだ。
そうして人麻呂が、もしかしたら(というより確実に?)宮廷で詠みあげた130の長歌、131、132の反歌は、「フィクション」が勝っていく過程の結果ということになるのかな?
それにしてもだね、人麻呂の長歌を加賀美幸子さんの朗読で聴いていると、なんか、やっぱ、すごい!って感動しちゃうんですよ。
タイムマシンがあったら、持統朝の宮廷サロンを覗き見したいのあります。
(ああ、私、ひと段落したら、絶対もう一度梅原猛の柿本人麻呂関係は読みます)