NHKラジオの「歴史再発見」
聞き逃しで聞くのだけれど、今は「古代ローマ成立期の皇帝たち」を聞かせてもらえる。
ちなみにこのシリーズの前は「明智光秀の実像に迫る」シリーズだった。
ドラマが再開されても、明智光秀の新鮮な実像?に横槍が入るかもしれない気もしている。
今4回目になった初代ローマ皇帝アウグストゥスのお話も面白い。
塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読み通した人は、おそらくそうそうはいないと思うのだが、延々4、5年(いやもっとかな、)にわたって書き継がれたこの本を私は読み通した。
つまり、読んだはずなのに、今、初代ローマ皇帝アウグストゥスについて聞いて、私は「歴史再発見」を経験しているのである。
塩野七生さんはきちんとお書きになっていただろうに、私はどんな本読みをしてきたのかと、いささか情けない、申し訳ない。。。
確かめてみたらよかろうものだが、断捨離過程で残したまま、どれかのダンボールにしまいこんであるから、終のすみかでダンボールを開けたら、もう一度めくってみたいとは、思っているが。。。
柿本人麿の実像は・・・
実はここを書いておきたかったのだが、再発見は、私は柿本人麿に対しても経験している。
実家の父の本棚に残っていた梅原猛著作集「万葉を考える」をちょこちょこ読んでいる。
これも私は自分で買って読んだはずなのに、今になって新鮮なワクワクを感じている。
梅原猛著作集も断捨離しないでしまいこんである。 この著作集こそもう一度読む、きっと読む!!!
東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
「一般に万葉集の歌は、このように壮大で雄偉な歌が多いが、人麿の歌には特にそういう歌が多いと考えられ、この歌などは、そういう意味で、人麿の代表作と見られてきました。」
本文から
中学校か高校で初見した時にも、確かにそういうふうに学び、以後私はどんな本読みをして来たものやら、この歌に対する特別な思いを持ったことはなかった。
梅原猛は、契沖が読んだようにこの歌を詠むべきだと言う。
「昔から、この歌は『東野にけぶりの立てる所見てかへり見すれば月傾きぬ』と読まれてきました。この『炎』は『かぎろひ』ではなく、『けぶり』と読まれてきたのです。このように読めば、意味もすっかりちがって来ます。」本文から
「炎」を東の空の暁の光ととらえるのではなく、狩で野焼きをして、獲物を追い立てるけむりととらえる。
「この歌は、けっして壮大でも雄偉でもありません。むしろ孤独で沈痛な歌です」本文から
柿本人麿という生身の人が、むくむくと立ち上がってくるのである。
人麿の長歌もよくよく教わっていくと、実に面白く、全く再発見である。
つまり世界は、その人の、その時その時のありようで、違って見える。
いい年をして今頃そんなことを言い出すのかと言われそうだが、世界の変わりようというか、なんだかお尻が横滑りに違うところへ行ってしまったような、漠然とした不安が私を再発見へ誘っているのかもしれない。