今日は集落の道打ち
やっと長梅雨が明けたと思ったら、もう8月になっていて、今日は例年の道打ちだった。
田舎暮らしでは、道打ちが終われば、もうお盆がすぐ目の前で、過ぎてゆく夏の始まりを感じさせるのだった。
世界が変わろうとしているようで、田舎暮らしを選択する人が今後増えるかも知れない。
で、道打ちなるものについて
都会暮らしが長い人が田舎暮らしを始めるにあたって、要注意なるものは草との戦い(だと、我が家は、私と夫は経験値から断言する)。
道打ちとは、集落全体のお盆前の道刈りのことを言う。
この道打ち以外には、5月から10月にかけて一ヶ月に一度程度、桜並木の下刈り、川の葦刈りがある。
これは共助に相当する。
これらの草刈り以外に、自分ち周辺の草刈り、仕事場周辺の草刈り、耕作地の草刈り、保育園小中学校の草刈り整備、裏山があれば(ほとんどの家が相当する)、家に迫る山側の草は2、3回は刈ってをおかないとまずい(2、3回では美観上は問題で、足りていない)。
ここは自助に相当する。
う〜ん、つまり、村人なる者、はほぼ草刈機をイチの友として春から晩秋までを過ごすと言ってもいいかな・・・
一般的に村社会は、自助→共助→公助、この順で成り立っている。
村社会でなくとも人の社会の成り立ちはこうなっているのだろうが、村社会では、共助の部分がかなり重い?
自助、共助がゴチャゴチャで、曖昧にしておくと、案外思いもかけない厄介というか、暮らしにくさというか、そういうところへ落ちてしまう。
まあこれも経験して学んでいけばいいわけだが、「郷にいれば郷に従え」を馬鹿にしていたら、おそらく田舎暮らしの壁にぶち当たる。
ここでもう一つ問題がある。
「郷にいれば郷に従え」と、表向きは上手にやっていても、元来が都会暮らしの気ままさと価値観を捨てきれない者は、内では引き裂かれているわけだから、これも厄介だ。
う〜ん、これ、私のこと?
つまり、いいとこ取りはできないわけで、どのような空の下に暮すにしても、どこかで折り合いをつけて人は生きていくしかないのであ〜る。。。
道打ちを終えて、やっと始まった夏休みもラジオ体操は無くなった。
こんな人がいない山の中で三密もないだろうと、集会所の掃除をしながらおばさん連中は笑ったのであるが、ラジオ体操もない夏休み、本当に世界が少しずつ変わって見えてくる。
あの夏の光と陰は〜どこへ行ってしまった〜の〜
おそらく光と陰に変わりはないのに、人の世界の方がどこかへ行ってしまう・・・