bull87’s blog

田舎の暮らし〜こんなふうです〜老後をお考えの方、参考に〜Iターンを選択肢に入れてる方、参考に〜なるンかなあ・・・

その国の「心細さ」

春本番が始まると、何かと忙しい・・・その前に、一応、書いておくことにする笑。

 

どうしてプーチンさんはあんななんだろうか?

習近平さん然り、ついでに金正恩も・・・そしてネタニヤフ首相も・・

 

すごーく普通の疑問に、この司馬遼太郎さんの2冊を読むと、

何となく、何となく、ではあるけれど分かる気がしてくる。

 

 

お互いの歴史を知ることは大事なことだ(当たり前)。

ロシアという国の成り立ち

中国の、長い長い歴史

朝鮮半島の歴史

紀元前からの日本も含めた歴史・・

 

長安から北京へ」は1975年5月8日に羽田を出て、同27日伊丹空港に戻った20日余りの訪問記だ。

翌1976年に周恩来死去、天安門事件、鄧小平失脚、毛沢東死去。

9月の毛沢東死去の一ヶ月後には例の四人組追放。

 

司馬遼太郎が北京や長安に行った時には、

文化大革命の総仕上げ、苛烈な紅衛兵旋風がひと段落した?ころだ。

行く先々で、面変わりしたかのような中国を見せられて、

内々うんざりしながらも、司馬さんは丁寧に観察し、理解し、考えようとしている。

 

「中国の外交はこの底冷えするような心細さが核になって発想され旋回している」

これは毛沢東社会主義革命による国家樹立後の中国に対する司馬さんの感想だ。

 

もう30年近くも前の司馬さんの言葉だが、今の中国を理解するワードのように私は感じた。

 

このことは、同じくロシアという国にも、朝鮮半島の国にも共通する「底冷えするような心細さ」と言えるのだろうか。

 

この「心細さ」が肥大化していったのが、今、世界を不安にしているロシアや中国や北朝鮮の姿なのかもしれない。

国家というより、プーチン習近平金正恩という一個の人格に潜む心細さなのだろう。

 

「新中国が秦ノ始皇帝を大きく評価するのは、なによりも分裂をきらい、統一を愛するからに相違ない。〜略〜 逆に中国社会というのは素質としてともすれば分裂したがるものを内蔵していることをかれらはよく知っているためかともおもえる。」

 

「〜たまたま隣りにおられた中国史の老学者ー左翼でも何でもない人だがーに、

『一つの語録を、七、八億の中国人がいっせいに読みに読んでいるというのは、変なものですな』といったところ、その人は言下に、

孔子語録(論語)を二千年も読みつづけてきた民族じゃありませんか』といわれた。」

 

共産主義儒教に代わって、統一の体を成す・・・

 

あの赤い毛沢東語録は、今、中国の家庭にまだ存在しているのだろうか。

 

最後に、あとがきで司馬遼太郎はこう書いている。

しかし人間の歴史は、端倪すべからざる生きものである以上、今後、中国がどう発展してゆくのか、測りがたい。どう発展してゆくにせよ、中国は非中国的発想は決してとらず、古代からつらぬいてきた冥冥のー法則ともいいがたいようなーなにごとかによって動いてゆくことだけはどうやら間違いがなさそうに思える。

 

「なにごと」とは多分一言で言い表せない「なにごと」かだ。

けれどもこの司馬さんの本を読むと、何となくその「なにごと」かが、おぼろげに!じわじわ感じさせられてくる。

 

だけれども、その心細さを理解したからといって、横暴や残忍さを理解することはできない。

 

「中国のおける信という課題は、倫理学的色彩を超えてやや非合理な、あるいはぶきみな機能をもつものといえるかもしれない。」

と、司馬さんは言う。

 

「信」と、今では死語あるいは見せかけの言葉になった「友好」、

倫理の根底に取り戻すことさえできない、そんな様相を呈してきたなあ・・・

 

あと、「ロシアについて」の感想ははまたの時に書いておきたい・・・

考えようとしても、私なんぞには手に負えなくなって、私、くたびれちゃう・・