この講読を聴き出してから(聞き逃しで聴く)、恥ずかしながら、私は柿本人麻呂の長歌に目覚めたのです。
万葉集の長歌なんて、なんだかめんどくさいくらいにしか思っていなかったことを、今は恥じている(相当に恥ずかしい話だ)。
山本健吉は「柿本人麻呂」(新潮社 昭和37年初版)の中で、こう書いていた。
「人麻呂はある意味では、この長歌様式の完成者であり、壮大華麗な修辭で、藤原朝宮廷の儀式的要求を満足させた。だが、彼が長歌の完成者であったことは、別の意味では、長歌のはらむ矛盾を極限まで発展させたことでもあった。人麻呂は、長歌の可能性を、みづからの天才によって扼殺してしまったのである。」
山本健吉の「柿本人麻呂」と「芭蕉」は断捨離せずにいたのは正解。今回、また読み直している。
「石見相聞歌」と言われる、長歌、反歌群の講義は17回目だった。
18回目は、「泣血哀慟歌」だったから、おそらく19回目は石見国での死に臨んだ時の自傷歌の講義になるはずなんだが。。。
その際に、鉄野昌弘先生がどのように講義なさるか。。。
今までのところ、当初、私が「ワクワクする」と言ったようなお話は先生からは聞かれない。
けれども、とても分かりやすく、きちんと教えてくださっているから、この講義の本筋はそこにあることを、私はちゃんと理解しなければいけない。
で、石見相聞歌の歌群のうちの「或本反歌曰」には、他の二つの長歌には無い
「大舟之 渡乃山之」(おおぶねの わたりのやまの)
「嬬隠有 屋上乃山乃」」(つまごもる やかみのやまの)
という句がある。
石見国国府庁があった現浜田市から十数キロ東に向かえば、中国地方の一級河川・江川が流れている。
この川の上流域は中国山地をうねりながら流れ下って、河口は日本海に注ぐ。
河口からさほど遠くない中流域は、過去には幾度も氾濫して、この江川を「中国太郎」と呼んでいたそうだ。
したがって川は、点々と、堅固で巨大な防波堤が築かれ、言ってしまえば「味もそっけもない」川になってしまっているが、仕方のないことで、こんなことを言ってはいけません。
そのたびたび氾濫する中流域の右岸に「渡」(わたり)という集落がある。
そんなに詳しくはないが、この「渡」集落の裏に構える山を越えたら、多分?「矢上」という集落があるのだ。
古代山陰道については最近とみに研究の成果が出ているそうだ。
「悲願」の山陰高速道が継ぎ接ぎのように工事中なのだが、『やたらと遺跡が出てきて、工事云々』の話を聞いたことがある。
石見国府から大和へ上る古代道がどのようであったかは、私は勉強不足で、それに今現在も検索していないから、勝手なことを言っているのだけれど、「わたり」と「やかみ」という語を目にすれば、「妻に分かれて上り来る時」、なんだか人麻呂が本当に通ったように思えてしまうのだ。
斎藤茂吉が人麻呂終焉の地と結論付けた「湯抱」鴨山の地は、この江川をさらに上流へ遡った山の中にある。
おやまあ、と意外なほどにポツネンと、その終焉の地と名付けられた場所は現れる。
斎藤茂吉の「鴨山考」を読んでいないので、「渡」や「矢上」集落に触れている部分があるのかどうか、わからない。
けれども湯抱を終焉の地としたからには、江川流域の集落も調べているだろう。
嘘かホントか、ちょっと定かではないが、江川左岸に沿った国道沿いのどこかに「人麻呂渡しの地」(?)という立て看があったような記憶が・・・
まずは、これにて。。。
*ちなみに、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」はとっくに読了しているが、感想文は書けない。なぜだろうか、なあ・・・単純に、好き嫌いの話か、なあ・・・