耽羅・・韓・・韃靼・・
こういう流れは自然と言えばそうなんだが、もっと早くに読むべきであったなあ。
「韓のくに紀行」(「街道をゆく2」)が週刊朝日に連載されたのは、1971年から1972年にかけてで、司馬遼太郎がまだ40代後半の頃だと思う。
「耽羅紀行」(「街道をゆく28」)は1986年、60代になっていた。
「韃靼疾風録」は1991年刊行で、司馬遼太郎の最後の長編小説になった。
「オホーツク街道」(「街道をゆく38」)の旅は、1991年と1992年の2度にわたっていて、勝手な推量だが、「韃靼疾風録」を書き終えてからの旅だったのではないか。
「韃靼疾風録」の後書きで
私は、こどものころから、
「韃靼」
ということばがすきであった。民族名でもあり、地域名でもあったが、しかしいまはこん な名称は現実には存在しない。
日本の地図上での名称は、日本海、対馬海峡、東シナ海、そうしてうんと北にオホーツク海、間宮海峡。
これらの海の向こうの大陸を、それこそ「蝶が一匹 韃靼海峡を渡っていった」みたいに鮮烈な憧憬で、心に抱いて生きていく人の豊かさ、そんなふうに私には感じられる。
「中国・蜀と雲南のみち」(「街道をゆく20」)では、巴蜀への『想い』をこのようにも書いている。
かれが四川大学の出であることを知って、まことに遥かなる想い持った。
〜略〜
最初にこのひとに出会ったときの印象は、その出身大学の名のためにひどくロマンティックな色彩を感じたことはたしかである。
司馬遼太郎のこれらの『想い』は、どこから来るのだろう。
日本海の海に浮かんだ小さな小舟から周囲の陸や島や半島を眺めて抱く『想い』というのとは、少しばかり違うようでもある。
膨大な著作物であるからして、私などには分かるべくもないのだが、「こどものころから、『韃靼』ということばがすきであった」と自覚しているからには、
何かある一定の言葉の響き、字面に反応する自分について、どこかで何か書いていてもおかしくない。
自分のことではあるが、数年前に台湾の花蓮で、何かの事故?災害?があったとき、誠に不謹慎ではありながら、私は「花蓮」という言葉、その字面に胸がキュンとした。
これはおそらく台湾映画の侯孝賢監督の1980年代から90年代にかけての一連の映画からきている。
侯孝賢監督は1歳の時中国大陸から渡ってきて花蓮に住んだ、台湾ではいわゆる客家である。
彼の初期の「川の流れに草は青々」という映画を見れば、誰だって「花蓮」と聞けば胸がキュンとする。(舞台や撮影が花蓮でないとしても)
私を引き合いに出したのはおこがましくも気が引けるのではあるが、
韃靼、耽羅、巴蜀、とか、司馬遼太郎少年にロマンティックな『想い』を抱かせたその元については、私は読んでいない。
いずれにせよ、司馬遼太郎の「街道をゆく」は43作あって、私は21作しか読んでいない。
というより朝日文庫の21巻を持っているに過ぎず、読み飛ばしたのもあれば、2、3回は読んで、付箋だらけの「台湾紀行」や「愛蘭土紀行」もある。
せめて「街道をゆく」は全巻読んで、私の本棚に並べてから死ぬのが、希望である。