bull87’s blog

田舎の暮らし〜こんなふうです〜老後をお考えの方、参考に〜Iターンを選択肢に入れてる方、参考に〜なるンかなあ・・・

どうしてまた高村薫さんの「土の記」に手を伸ばしたか? 2)

湿度が高いです。

それでも今日は降雨確率が10%と出ているので、夫のシーツを洗いました。

今3回目の洗濯機が回っています。

1回目は普通のお洗濯、2回目が夫のシーツ、3回目は台所の足下マットです。

 一緒に洗うのは嫌なので、3回、回しています。

 

さて、その3回目が終わるまでに、今朝から気にかかっていることを書き留めます。

1)丸谷才一の「後鳥羽院」を私は断捨離していたことを、少し後悔しました。

 今度図書館で探します。

       f:id:bull87:20210829112830p:plain アマゾンで出ていた中古本。

                  確かに私が断捨離したこの本も、こんなふうに汚れていました。

 

   我こそは新島守りよ隠岐の海の 荒き波風心して吹け  後鳥羽院

 

先日、周防柳著「身もこがれつつ 小倉山の百人一首」を読んでから、先の後鳥羽院の歌が頭の中に時々浮かんで困ります。

納得の一首だからです。

したがって、どなたか後鳥羽院についてか書かれた本を読みたいと思い、検索していたら丸谷才一さんの本です。

ああ、残念なことをした、この本なら私は読んだはずなのに・・・

 

2)pc周りに、新聞の切り抜きがありました。

8月19日の「折々のことば」茨木のり子さんの詩から。

 言葉が多すぎる/というより/言葉らしきものが多すぎる/というより/言葉と言えるほどのものが無い

 

私は茨木のり子さんの詩集を一度も手にしたことがありません。

まれに何かで見かけて、検索して読む程度です。

 

「折々のことば」には、割合乗っていたような気がします。

つまり、名言、と言ったら彼女の詩に悪いに決まっていますが、本当に、心にグサリときます。

 

で、私は、彼女の詩を愛読してこなかったのは、ある意味、良かったような気がしました。

 

3)映画「ライトハウス」、この映画がかかっている映画館を検索したら、なんと北海道では苫小牧と、函館のシネマアイリスだけでした。

すご〜く、観てみたい映画です。

      f:id:bull87:20210829112707p:plain

 

もちろん島根県の、こんな山間、しかも、よしんば広島でかかっていたとしても、県境を跨いで広島へ出ていく勇気は、今はありません。

 

早く、函館移住を完遂したいと、つくづく思いました。

 

4)昨夜、高村薫さんの「土の記」下巻を読み始めたのですが、読み始めてすぐに、涙が出そうになって、堪えました。

こんな、なんでも無い文章です。

 

 雨上がりの暖かい朝になった十六日、集落には棚田に藁を鋤き込む者や畑の世話に出てきた者の姿があり、農道には双子用のベビーカーを押して歩くミホの姿があり、久々にヘルパーの単車も現れて、今度はどこの年寄りが寝たきりになったかと振り返る眼が集落のそこここにある。上谷の伊佐夫もその一人だったが、元より垣内の年寄りへの関心など三秒も続かず、茶畑の見回りから戻ると、そのまま犬を軽四輪に乗せ、お供えの花と握り飯とペットフードを持参して墓所の墓掃除に出かけてゆく。

 

全体に高村薫さんの本は、一文が非常に長い!ものもあって、言葉を重ねて重ねて、行きつ戻りつ、「新リア王」とかは特にそうだったような気もしますが、難解すぎて?、私の頭ではその行きつ戻りつについていけず、読み終えるのが、一種苦痛だったような記憶ですが、この「土の記」は総じて、私のような頭でもついていけます。

 

つまり、高村薫さんの文章は、言葉が非常に大切に大切に選ばれている、そういうことではないですか。

もちろん、そういう物書きさんは、他にもたくさんいらっしゃるでしょうが、私が知らないだけですから・・・

だから、何気ない先のような文章でも、読み手のその時の心のありようでは、涙が出そうになったりするのです。

 

前にこの本の帯「老いの絶対零度」に、イチャモンをつけましたが、今朝はなんだかしんみりそれを受け入れるような心持ちがしないでもないです。

先の文章のような書き様に、人の生が、元から「絶対零度」であった、ということを表現している様な気がします。

 

洗濯機から完了のブザーが聞こえた気がします。

 

 

「身もこがれつつ 小倉山の百人一首」周防 柳著

巣ごもりを持て余しておられる方は、読んでごらんになるといいと思う。

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始めの、さあ、5分の1くらいかな? 私は、この本を何故「読ませられなければならないのか」と自問した。

はっきり言って、残念だった。

何より藤原定家の象が、あまりにも無惨だった。

 

2、3日、放っておいて、そうしてまた我慢して!半分までは読んだ。

昨夜、投げ出すわけにもいかず、それに、作家さん、周防 柳さんに悪い気もしたから、またまた読み始めた。

そうして一気に最後まで読んだ。

おかげで寝不足状態の今日。。。

 

まずは感服した。。。

よくぞここまで和歌の数々を並べて、それらの歌歌に物語を押し込めなさった、その労力と、物書きさんならではの想像力に敬意を表したい。

 

昨夜読んでいる限りでは、始めの不満はどこかへ置き去りにすることができた。

物語に引き込まれたからである。

 

元来、藤原定家という人には、特別な、個人的な、好き勝手な象を持っていたわけでもない。

紅旗征戎我がことにあらず」

これが、私にとっては、藤原定家の象である。

 

遠い昔、学生さんだった頃、図書館にこもって「新古今和歌集」を私は読んだ。

その時は、摂政太政大臣藤原良経に惹かれたし、家隆には、今思えば、どことなく孤高の、なんだか他の歌とは違った、そう、一陣の風に吹かれたような、そんな印象を持った。

 

小倉百人一首の最後の3首

来ぬ人をまつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の身もこがれつつ (権中納言定家)

風そよぐ楢の小川の夕暮れは 禊ぞ夏のしるしなりける (従二位家隆)

人もをし人も恨めしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は (後鳥羽院

 

この歌を三つ並べて、作り出した?物語だ、と、私は思って良いのかな。

したがって、定家の象が無惨であっても、源実朝があやふやであっても、よしとすることにした。

周防柳さんの腕力?に敬意を表したい。

やはり、作家という人種は😞、想像力とか構成力とか、半端ない。。。とにかく感服。。。

 

 

 

 

 

 

どうしてまた高村薫さんの「土の記」に手を伸ばしたのか?

「ぼとぼと、ばたばた、ぼとぼと、ばたばた、雨滴が杉の斜面にへ落ちる。杉の下の自生の茶の木へ、この漆河原の集落へ、棚田へ、畑へ落ちる。半坂や馬取柿や、近隣の集落へ続く草むした峠道や林道へ落ちる。わずかばかりの家々の屋根瓦へ落ち、枕に載せているこの頭の上へ落ち、頭蓋骨に当たって跳ね返り、一部は骨を透過する。昨日一日考えたことやあれこれの記憶が濡れそぼってふやけ、かたちがなくなる。」

 

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昨夜は上巻を読んだ。

どうしてまた二度目の「土の記」に手を伸ばしたか?

つまり、私は上に書いた文章の、あの世界にもう一度手を伸ばした、そういうことだと思う。

 

上巻の帯には

「大地に雨が躍り、光が滴る」とある。

下巻の帯は

「生の沸点、老いの絶対零度」とある。

 

いくらなんでも「老いの絶対零度」とは・・・どういう意味だ?

私にはわかりませんね。

 

まあ、編集者にもいろいろ都合があるだろうから、このことについてはスルーする。

 

上巻の後半からは、何がしかの変化も起きて、物語らしき何かもあって、先を急ぐように読むようになることは、なる。

 

結局けれどもだね、やはり、この「土の記」は、薄皮を剥がすように、人の生の虚無が、あちこちに立ち現れたり、ぼやけたり、それこそ、「ぼとぼと、ばたばた、ぼとぼと、ばたばた、」と、頭の奥で耳鳴りのように人に囁きかけるのだ。

 

それを「老いの絶対零度」と表すのだろうか?

いや、高村薫さんは、「老い」がその薄皮を剥がしていくというふうに書いてはいないのだと、私は思う。

「老い」を使っただけだ、と、私は思う。

薄皮を剥がすには、ちょうど「老い」が、都合が良かっただけだ。

 

なんだか今日は一日、この雨続きの湿気の中で、

私も、耳鳴りの先の、しーんと静まった世界に、片足突っ込んだみたいに過ごしそうな気がしてきて、

おやおや、それはいけません、

今日は夕方、夫の競馬時間が終わったら、下の町に買い出しに行って、焼肉を食べにいく!!!

「キネマの神様」は平成生まれだって、観て欲しい

男はつらいよ お帰り寅さん」と、この「キネマの神様」2作は、「ありがとう!山田洋次監督」映画としたい

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で、私なりの感想を。

北川景子さんという女優さんを、再発見した。

あまりにお美しいゆえ、お人形さん(?)みたいで、今まではすご〜く低評価だった(私には)。

堤幸彦監督の「ファーストラヴ」でも、芳根京子さんのおかげで辛うじて保っていた(ごめんなさい)。

ところが、「キネマの神様」のあの女優さんは、北川景子しかありえないなと思った。

例えば蒼井優ちゃんとかやっていたら、きっと似合わなかった。

 

つまり、昭和の映画の、どことはなしに作り物っぽい役者さんの感じ、それが北川景子さんにはよくハマっていた。

このことは何も、悪口ではなく、北川景子さんという女優さんが待つ、いいところなんだと思う。

 

結局、役者さんは、監督が作ってあげるものなんだね。

 

山田洋次監督は、どうしてああも狭いところがお好きなのかと・・・

「お帰り寅さん」の、大人になった満男くんのマンションの彼の部屋が、あの狭さが、すご〜く好きだった。

「キネマの神様」では、テラシン(野田洋次郎さん)の貸し間の部屋が、まさにそれだった。

③今回も、小道具のあれこれが、やっぱり、山田組のそれだった。

映画館に行った人が、気づかれたかは知らないが、緑色の琺瑯のやかんが、2場面で写っている。

このやかんの形状は違うものだが、どういうわけか、どちらも緑色の琺瑯のやかんだった。

 

本当は、昭和のあの時代に、あの琺瑯のやかんはおそらくなしのはずだと思うが、小道具さんはあのやかんを持ってきたんだ。(もしかして、若い平成生まれの小道具さん?)

 

狭いところがお好きなわけではないはずで、つまり、セット作りがそうなるだけかもしれない。

あるいは山田洋次監督は、あの狭さが!昭和だ・・・まさか、そんなふうに思っておられたわけじゃないと思うが・・・

 

こんなことばかり言っていると、昭和生まれだけが見ればいい映画だということのなりそうだが、やっぱりそれは違う。

映画好きなら、平成生まれさんもちゃんと映画館で、観ておいた方がいい。

そうして、セット作りとか、小道具とか、そういうものが映画を作るということにも思いを馳せてもらいたい。

 

例えば「罪の声」とか、あれはすごく残念な映画だった。

おそらくセット作りや小道具や、ロケ地とか、役者さん着ているものとかで、せっかくの設定が、ちっとも映画に入り込めない違和感を出してしまっていた。

    (星野源くんが着ていたアイロンがけのワイシャツのシワ感、あれはマル)

あのあたりがなんとかなっていたら、ごちゃごちゃ言わせない映画を見せてくれたような気がする。

 

小栗旬くんや星野源を見せる映画だから、と、たかを括って仕舞えばいいのかもしれないが、そんなことじゃあ、映画に対する愛が泣く。

役者さんは、監督さんが作る、これで、映画は成り立つ(と、私は思う)。

そうして映画は、大道具さんや小道具さんが、思いっきり映画の完成度のパーセンテージを占めている(と、私は思う)。

 (だから、エンドロールは、ちゃんとゆっくり流して欲しい。パンフじゃあ、文字が小さすぎて、可哀想だ。。。)

 

 

 

「竜とそばかすの姫」のことだけれど・・・

「竜そば」はぜひとも!映画館で観るべし!

封切り当初から、高評価と低評価が極端で、しのぎを削っている。

こんなだから全体では、3.5に届かないことになっている。

う〜ん、4.5を進呈した私は、あまりの酷評のパレードにはいささか考えさせられるなあ。 

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高評価の意見は、概ね「楽しめばいいじゃないか」で一致しているわけだが、

「ワイの2時間を返してくれ!」とか、「0.5も付けたくない」とかとお書きになっている方々の批判は、アニメの世界は大変だなあ〜と、アニメに詳しくないおばさんには、理解を超えている。

 

函館「シネマ太陽」(函館駅近)で、16日の封切り日に観に行った。

(2週間、島根からはるばる函館に行っていた)

そうしてその色彩の美しさ、いや繊細な美しさに、度肝を抜かれたのだね。。。

 

歌の素晴らしさは皆さんが仰るように当然!!!ではあるが、私はただただ色に圧倒された。

一晩置いて、翌日に映画.comにレビューを投稿した。

あの色彩は、ある意味、非常に日本的情緒を濃厚にたたえている、と言えないか・・・

中村佳穂さんの素晴らしい歌にも、ある意味、日本的情緒に訴えてくるものがある、そんな感じで感想を投稿した。

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  パンフが見当たらないのでこんな写真を借りてきたけれど、こんなもんじゃ無いんです!!!

 

 つまり、私はそんなふうに感じたのだ。

しかしあの映像に「コンニチ的!濃厚な日本的情緒の極地」などという言葉を思いついたのは、変かもしれない?

まあこれは、おばさんの感想だからシカト。

 

で、実はだね、私のそんなレビューに「共感」ポチを押してくれた人の中に、

「ユリ小池」「イチロー」なる方がいた。

小池百合子都知事の顔写真、小沢一郎の顔写真付きなのだから、まじか?みたいな・・

 

私がレビューを書いたのは土曜日で、共感は日曜日のお知らせだったから、封切り日の金曜から土日の週末に映画を観ていたことになる。

 

娘にPC画面の写メを撮って見せたら

「そんなわけなかろう」とつれないラインが帰ってきただけだった。

(大体が、Y子とか、小沢一郎とか知らないに決まっている。)

 

う〜ん、今朝「竜そば」のレビューを見たら、福山雅治さんが5の評価をつけていたね。

 

小池都知事とか、気分転換に映画館にいらっしゃることがあるのなら、慶賀。。。

小沢一郎が「竜そば」を観に行ったのなら、一層の慶賀。。。

 

で、函館にはもうひとつ映画館がある。

「函館シネマアイリス」、こんな映画館はとっくに地方の町から姿を消したが、函館、五稜郭の裏路地に、この映画館があるのは、慶賀。。。

函館滞在中に、ここでもう1本映画を観たが、また今度の機会に書いておきたい。

 

 

 

 

 

アニメワールド「キングダム」が見られないのです

NHKアニメワールド「キングダム」は、NHKプラスで見逃し配信していない泣

dTVで見るしかないのか・・・*他にもいくつかあるみたいだ

そもそも、NHKオンデマンドで、受信料以外にまたまた!支払いしなければならないことになっているのが、私的には心外、というより憤慨モンなのだ。

  *どうでもいい朝ドラとか見逃し配信しているくせに

 

おやおや録画してご覧になれば?と言われそうだが、我が家のテレビは録画機能は内蔵していない。

なおかつ我が家はここ20年、テレビを録画して見るという考えがない。

娘が小学生の頃、録画機が壊れた時、次を買わなかった。

つまり、これは、当時の私の子育て方針?がそうさせた。

「ビデオもない家なんかない」と娘は言ったが、小学生や中学生の女の子が、あのテレビの9時からのドラマなんぞを録画して見る姿を、私が見ること!がイヤだった。

  *高村薫さんは、未成年の子どもに対してはイヤなことはイヤだと言えばいい、とおっしゃっていた

 

そもそもテレビは録画してまで見るものではないというのが理屈にある。

しかし、ここにきて「キングダム」が見られないというのは、非常に、居心地が悪い。

  *スマホで契約したり、違法な配信で漫画を読んだりしているお父ちゃんもいるらしい

 

 昨日もT君が

「録画しておいたのをまとめて三つ見たら、頭が痛くなった」と言うので、

「函谷関はどこまでいった?」とか、二人で地図帳やら歴史年表やらを眺めて、宿題はそっちのけで、しかも、かっぱえびせんを食べながら、話が盛り上がった。

 

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    市立図書館で蔵書検索した岩波新書の赤本、誰も読んだ形跡なし・・・

 

せめて、本を読んで慰める

「人間・始皇帝」鶴間和幸著、80頁

「暗殺事件の翌年、秦の将軍王翦は燕太子の軍を破って燕の上都の薊に入っている。秦の李信将軍が追走して太子丹の首を取ったともいうが〜〜〜」

おお、これがキングダム・信のモデルさんか?と言われている人か。

函谷関の戦いから20年近く経っているわけだ。先が長い話ですなあ〜

 

映画の「キングダム」実写版は2、3とか続けて作っているらしいのだが、この状況なら遅々として進まず、山崎賢人君が先に年取ってしまうじゃないかと心配だ。

函谷関の戦いの時は嬴政だって、信だって、まだまだ10代後半のはずだ。

それに、将軍になった信を見たいわけでもない。

秦を統一して、おかしくなった嬴政を見たいわけでもない。

 

とりあえずAmazonプライムで1年遅れくらいでは見られるだろうから、諦めます。。。

 

 

 

 

 

「目と心を一つにして」

緑の綺麗な季節です

確か、棚田百選にも入っていたような気もするが、定かではない。

何かと人口減で人手不足は目に見えて、一望に棚田風景、というわけにもいかない。

    f:id:bull87:20210515084725j:plain 島根県浜田市室生の棚田


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断捨離せんとや生まれけむ〜〜〜

さて、来春の今頃には終の住処に引越しと確定したこともある。

また、7月には別件で函館に行かなければならないので、その際幾らかの荷物を送り込んでしまいたいということもあって、仕舞い込んでいた段ボール箱詰の本を取り出して、もう一度断捨離断行となって、広げたまま1週間になる。

 

昨夜、夫は言った。

司馬遼太郎は、もう、いいんじゃないの」

そう、確かに「坂の上の雲」とか、もう読まない99%確定本だ。

 

それなら、競馬道?関係の本とか、これはどういう扱いになるのかな。

寺山修司虫明亜呂無の対談「競馬論」、これを「どうするの?」とは、私は夫に聞かないで残している。

    f:id:bull87:20210515105632j:plain 古色蒼然ながら、輝きを失わない。こういう本はもう無い。

 

で、司馬遼太郎はもういいのか?という意見についてだが、それはそれで頷く面もある。

 

けれども、である。

昨夜「峠」の下巻で、こんな言葉に出会った。

妻のおすがの月代の剃り方が実にうまいという場面で、

  「目と心を一つにして、ねえ」

   と、継之助は、その言葉に感じたようにつぶやいた。「スーッと剃るか」

 

河井継之助の、幕末の騒乱の中での身の処し方は、この「目と心を一つにして」という定めを自分に課したことだったのだろうと、合点がいった。

「目と心を一つにして」身を処する、というか、生きる、というか、これのどこをもって「司馬史観はもう古い」と言わせるのだろうか。

 

以前、朝井リョウの「スター」の読後感で、私はこんなふうに書いた。

 

で、こんな小さな世界の境界を飛び越えることができるのは、『目』と『心』だけだという、これまた、陳腐な、元の鞘に収まるみたいな、とりあえず、そういうことにしておくしかないという思考の行った先が、ある意味、寂しくもあり、ホッとしたというのは、それこそ退化じゃないかというもの足りない感じが残る作品だったな〜

 

もし、こんな小さな世界の境界を飛び越えることができるのは、『目』と『心』だけだ、と、朝井リョウが20代の二人に思わせたのだとしたら、司馬遼太郎朝井リョウと同じところにある。

 

文久ロスジェネ世代?

さてさて、河井継之助は松本良順に破傷風の治療を受けに、籠城の最中にある会津に連れて行かれている。

数年もどって、やっぱり文久年間、あそこで人は「目と心を一つにして」生きていくことになるのか、ならないのか、その究極の選択を強いられたのだ。

 

そうして、その文久2年に生まれたのが森鴎外である。

森鴎外とは、文久年間のロストジェネレーションだったのではあるまいか。

 

マッチする 束の間見えし 霧の海 身捨つるほどの 祖国はありや  寺山修司