湿度が高いです。
それでも今日は降雨確率が10%と出ているので、夫のシーツを洗いました。
今3回目の洗濯機が回っています。
1回目は普通のお洗濯、2回目が夫のシーツ、3回目は台所の足下マットです。
一緒に洗うのは嫌なので、3回、回しています。
さて、その3回目が終わるまでに、今朝から気にかかっていることを書き留めます。
1)丸谷才一の「後鳥羽院」を私は断捨離していたことを、少し後悔しました。
今度図書館で探します。
アマゾンで出ていた中古本。
確かに私が断捨離したこの本も、こんなふうに汚れていました。
先日、周防柳著「身もこがれつつ 小倉山の百人一首」を読んでから、先の後鳥羽院の歌が頭の中に時々浮かんで困ります。
納得の一首だからです。
したがって、どなたか後鳥羽院についてか書かれた本を読みたいと思い、検索していたら丸谷才一さんの本です。
ああ、残念なことをした、この本なら私は読んだはずなのに・・・
2)pc周りに、新聞の切り抜きがありました。
8月19日の「折々のことば」茨木のり子さんの詩から。
言葉が多すぎる/というより/言葉らしきものが多すぎる/というより/言葉と言えるほどのものが無い
私は茨木のり子さんの詩集を一度も手にしたことがありません。
まれに何かで見かけて、検索して読む程度です。
「折々のことば」には、割合乗っていたような気がします。
つまり、名言、と言ったら彼女の詩に悪いに決まっていますが、本当に、心にグサリときます。
で、私は、彼女の詩を愛読してこなかったのは、ある意味、良かったような気がしました。
3)映画「ライトハウス」、この映画がかかっている映画館を検索したら、なんと北海道では苫小牧と、函館のシネマアイリスだけでした。
すご〜く、観てみたい映画です。
もちろん島根県の、こんな山間、しかも、よしんば広島でかかっていたとしても、県境を跨いで広島へ出ていく勇気は、今はありません。
早く、函館移住を完遂したいと、つくづく思いました。
4)昨夜、高村薫さんの「土の記」下巻を読み始めたのですが、読み始めてすぐに、涙が出そうになって、堪えました。
こんな、なんでも無い文章です。
雨上がりの暖かい朝になった十六日、集落には棚田に藁を鋤き込む者や畑の世話に出てきた者の姿があり、農道には双子用のベビーカーを押して歩くミホの姿があり、久々にヘルパーの単車も現れて、今度はどこの年寄りが寝たきりになったかと振り返る眼が集落のそこここにある。上谷の伊佐夫もその一人だったが、元より垣内の年寄りへの関心など三秒も続かず、茶畑の見回りから戻ると、そのまま犬を軽四輪に乗せ、お供えの花と握り飯とペットフードを持参して墓所の墓掃除に出かけてゆく。
全体に高村薫さんの本は、一文が非常に長い!ものもあって、言葉を重ねて重ねて、行きつ戻りつ、「新リア王」とかは特にそうだったような気もしますが、難解すぎて?、私の頭ではその行きつ戻りつについていけず、読み終えるのが、一種苦痛だったような記憶ですが、この「土の記」は総じて、私のような頭でもついていけます。
つまり、高村薫さんの文章は、言葉が非常に大切に大切に選ばれている、そういうことではないですか。
もちろん、そういう物書きさんは、他にもたくさんいらっしゃるでしょうが、私が知らないだけですから・・・
だから、何気ない先のような文章でも、読み手のその時の心のありようでは、涙が出そうになったりするのです。
前にこの本の帯「老いの絶対零度」に、イチャモンをつけましたが、今朝はなんだかしんみりそれを受け入れるような心持ちがしないでもないです。
先の文章のような書き様に、人の生が、元から「絶対零度」であった、ということを表現している様な気がします。
洗濯機から完了のブザーが聞こえた気がします。