bull87’s blog

田舎の暮らし〜こんなふうです〜老後をお考えの方、参考に〜Iターンを選択肢に入れてる方、参考に〜なるンかなあ・・・

「家持の絶唱」

「悽惆の意(せいちゅうのこころ)ー詩の頂点」(山本健吉大伴家持」)

家持が柿本人麻呂に触れたところ、見つかりました。(ああ、スッキリした)

万葉集」巻17・3969  越中国守として赴任中、掾(じょう)であった大伴池主との書簡でのやり取りにあった。

  

幼くして「山柿の門」をくぐることなくここに至っているゆえ、自分の歌などは〜というふうに書いて、池主と歌のやりとりをしている。(岩波書店万葉集」下)

     

池主もこれに応えて自分などさらに下手くそ?みたいに応じているんじゃないかな?

 

29歳で越中国守として赴任、あからさまに中央政界から遠ざけられた(橘諸兄の配慮か?とも)のではあるが、くさらずに大伴家の嫡男、律令の官僚としての務めに励んだ時代ではあった。

それでも個としての家持は「悽惆の意、歌にあらずは、はらい難きのみ〜」の自覚がますます募った田舎暮らしでもあったらしい。

 

NHKラジオ「古典講読 万葉集」でもこの越中時代を、鉄野昌宏先生はお話になられるに違いなく、ちゃんと訓読してくださるから待っていよう。

 

6年後に帰京して、家持・絶唱の三句、山本健吉が言う「詩の頂点」の三句が詠われたんだよね。

春の野に霞たなびきうら悲しこの暮影に鶯なくも 巻19・4290

我が屋戸のいささ群竹ふく風の音のかそけきこのゆうべかも 4291

うらうらと照れる春日にひばりあがり情悲しもひとりしおもへば 4292

 

万葉の抒情は、家持に至って、心理的な「細み」の精髄を掴み出すことに成功したと言えそうだ。〜折口信夫氏はそれを心の微動と言った。それの表現を家持のこれらの歌に見出して、驚喜した経験を語っている。(山本健吉大伴家持))

 

昨夜、やっとこさ、山本健吉さんを読み終えた。

で、先ほど届いた本、2017年発行だから、「水底の歌」に言及あるやもしれず・・・

ああ、でもこれ、ちょっと間を開けたほうがいいかもしれないなあ・・・

だって、私のこの状態、なんかあんまり良くない気がする・・・

     

   もうすぐ春だ!書を捨てて街へ出よう笑